著者:春星堂鶯宿 安政五年午晩冬 安政5年陰暦12月(1859年1月4日)
鼇頭(ごうとう)とは、本文上部の余白の部分のことで、この余白に注釈などのある本を指すこともあります。
つまり鼇頭奥之細道は、奥の細道についての頭注のある本ということになります。更にこの本は、与謝蕪村の奥の細道の画図を模写しています。今回当ブログでは、鼇頭奥之細道の画図について詳しく見てみたいと思います。
・底本と参考文献
奥の細道古註 荻原井泉水 編 育英書院 1936
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1882826
井筒屋本の「おくのほそ道」の本文と、「奥細道菅菰抄」「奥細道通解」「鼇頭奥之細道」の注釈部分を併記しています。そして、鼇頭奥之細道の挿絵も全て掲載されています。本ブログでは、この挿絵を画像編集ソフトで修正して掲載しています。
鼇頭奥之細道
著者:春星堂鶯宿
解説:村松友次 笠間書院 1983.9
解説には、”鼇頭奥之細道本文と、井筒屋本「おくのほそ道」本文との異同一覧表” などがあります。また、鼇頭奥之細道の画図を比較するために、京都国立博物館蔵の蕪村の奥の細道(昭和7年複製版)が転載されています。当ブログで用いているものと同じものです。
鼇頭奥之細道 下の巻
鶯宿子信 述併模写
早稲田大学図書館 古典総合データベース
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_04523/index.html
下巻のみですが実物を見ることができます。
「鼇頭奥之細道(鼇)」には、上巻の7図、下巻7図、合計14図の挿絵が含まれています。
これらの(鼇)の14の挿絵と、蕪村の奥の細道の「京都国立博物館蔵(京)」「海の見える杜美術館蔵(海)」「逸翁美術館蔵(逸)」「山形美術館蔵(山)」「柿衞文庫蔵・了川模本(了)」の5作品の画図と比較したところ、(京)と(海)の2作品で(鼇)と同じ構図の画図を網羅することができました。
また、(鼇)には、錯簡と思われる画図が2箇所ありました。一箇所は、(京)では鶴ヶ岡の長山氏重行の家での句会の模様として描かれたものが、(鼇)では、出羽の箇所に挿画されています。もう一箇所は、(京)では上巻の「飯塚の貧家」の画図となっているものが、(鼇)では下巻の「市振」の箇所に挿画されています。
これらのことについて、画像を比較しながら見てみたいと思います。
用例:
鼇頭奥之細道 上ノ三(p10-11) 上図1
(上ノ三)とあるのは、鼇頭奥之細道の影印の表記です。一部影印で確認できないものは、前後の表記から類推して表記しています。
(p10-11)は、「鼇頭奥之細道 笠間書院」のページ数です。
画像をクリックすると大きな画像が出ます。
・旅立ち
人々は途中にたちならひて後かけの見ゆる迄はと見送るなるへし
鼇頭奥之細道 上ノ三(p10-11) 上図1
与謝蕪村 京都国立博物館蔵 上図1
リンク上01. 02-03. 04.
注:芭蕉と曽良が旅立って行くのを、三人の弟子が見送っている。
(鼇)では曽良も杖を持っていますが、(京)では曽良は杖を持っていません。
その代わりに、(京)では黒の羽織の人物が杖を持っていますが、(鼇)では杖を持っていません。
・那須
ちひさきものふたり馬のあとしたひてはしる
鼇頭奥之細道 上ノ七(p18-19) 上図2
与謝蕪村 京都国立博物館蔵 上図2
リンク上06. 07-08
注:(京)では馬に乗る芭蕉は頭陀袋を下げていますが、(鼇)では頭陀袋は描かれていません。
・須賀川
此宿の傍に大きなる栗の木陰をたのミて世をいとふ僧有
鼇頭奥之細道 上ノ一二(p26-27) 上図3
与謝蕪村 海の見える杜美術館蔵 図3
与謝蕪村 京都国立博物館蔵 上図3
リンク上11-12.
注:(鼇)の構図は(海)と同じですが、筆のタッチは(京)に近いようにも思えます。
・佐藤庄司が旧跡
中にも二人の嫁かしるし先あはれ也女なれともかひ/\しき名の聞えつるものかなと袂をぬらしぬ
鼇頭奥之細道 上ノ一五(p34-35) 上図4
与謝蕪村 京都国立博物館蔵 上図4
リンク上13. 14.
注:(鼇)では向かって左側の武者は弓の弦を上向きに持っていますが、(京)では弦が下を向いています。(山)でも弦は下を向いています。(逸)では弓ではなく槍が描かれています。
・壷の碑
鼇頭奥之細道 上ノ一八(p41) 上図5
与謝蕪村 京都国立博物館蔵 上図6
リンク上17. 18.
注:(海)には上部の「西」の文字が書かれていません。(逸)には「西」の文字が書かれており、更に碑の右脇に「石高六尺五分 幅三尺四寸」という文字があります。
追記
(鼇)は蕪村の作品は当然見ていたでしょうが、この図に関しては、蕪村の画図を模写したのではなく、当時広く知られていた「壷の碑図」を模写したように思えます。
壼碑考(多賀古城壼碑考) 本郷弘斎(平信恕) 享保元年(1716年)
国会図書館 壼碑考
蕪村は「壷の碑図」を絵画的に描いているのに対して、(鼇)は奥の細道の資料として描いているように思えます。
詳しくは「与謝蕪村 奥の細道画巻と鼇頭奥之細道と多賀城址壼碑図について」を参照ください。2020.5.27
・塩竈の琵琶法師
其夜盲法師の琵琶をならして奥浄留りといふものをかたる
鼇頭奥之細道 上ノ廿一(p46) 上図6
与謝蕪村 海の見える杜美術館蔵 図6
与謝蕪村 京都国立博物館蔵 上図7
リンク上18. 19.
注:着物の胸がはだけた感じや、顔の表情などは(鼇)は(京)に近いように思いますが、(鼇)では杖などは描かれていません。この点は(海)と同じです。
・塩竈から松島に渡る
舟をかりて松島にわたる
鼇頭奥之細道 上ノ廿二(p48) 上図7
与謝蕪村 京都国立博物館蔵 上図8
リンク上20.
・尿前の関
此路旅人稀なる處なれは関守にあやしめられて漸としてせきをこす
鼇頭奥之細道 下ノ一(p62-63) 下図1
与謝蕪村 京都国立博物館蔵 上図9
リンク上24. 25.
注:(海)にはこの場面の画図はない。
・尿前の関より尾花沢へ (山刀伐峠越え)
究竟の若もの反脇差を横たへ樫の杖を携て我ゝか先にたちて行
鼇頭奥之細道 下ノ二(p64-65) 下図2
与謝蕪村 海の見える杜美術館蔵 図8
与謝蕪村 京都国立博物館蔵 下図1
リンク上 25. 下 01.
注:究竟の若者の部分に関しては、反脇差や杖の太さ顔の感じなど、(鼇)は(京)に似ていますが、芭蕉と曽良の部分については、(海)に似ています。両者を折衷したように思えます。
・出羽三山
坊にかへれは阿闍梨の需によつて三山順禮の句短籍に書
鼇頭奥之細道 下ノ七(p72-73) 下図3
・鶴が岡
羽黒を立て鸖か岡の城下長山氏重行といふもののふの家にむかへられて誹諧一巻有
与謝蕪村 京都国立博物館蔵 下図2
リンク下05.
注:(鼇)と(京)は同じ構図の画図ですが、(京)では長山氏重行の家での句会の様子として描かれているのに対して、(鼇)では、月山の山頂の描写の部分にこの絵が置かれています。そのため、月山から下山して坊に帰ってから会覚阿闍梨に求められて、三山順礼の句を短冊に書いた時の様子と解釈せざるを得ません。
この他、(海)では(京)と同じ箇所にこの画図が描かれていますが、(逸)では象潟へ行って、酒田に戻って来たところにこの画図が置かれているので、「酒田のなごり日を重ねて」という酒田で滞在を延ばして句会を開いた様子であるという解釈ができるかもしれません。
・越後路
越後の地にあゆミを改めて越中の國一振の関にいたる此間九日暑濕の労に神をなやまし病おこりて事をしるさす
鼇頭奥之細道 下ノ十二(p84-85) 下図4
・飯塚の貧家
夜に入て雷鳴雨しきりに降て臥る上よりもり蚤蚊にさゝれて眠らす
与謝蕪村 京都国立博物館蔵 上図5
リンク上14. 15. 越後路下07
注:(京)ではこの画図は、上巻の飯塚の貧家に泊まった時の様子で、芭蕉がが筵に横になって頬杖をついているのを、曽良が団扇で扇いでいます。筵というのは、「土坐に筵を敷てあやしき貧家也」の描写に一致します。団扇で扇いでいるのは、「蚤蚊にさゝれて眠らす」というところから、団扇で蚊を追い払っているのではないかと思います。
この画図は(京)のみで描かれたもので、その他の(海)(山)(逸)(了)にはありません。
(鼇)ではこの画図は市振での遊女の話のところに置かれていますので、これは明らかな錯簡です。しかも本文では、芭蕉は疲れて寝ていたところ、遊女たちの話し声が聞こえた。となっており、そしてその話し声を聞きながら寝てしまった。とされているので、曽良が団扇で芭蕉を扇いでいる情景とは合いません。そこで、これより前の越後路での「暑湿の労に神を悩まし」を踏まえた画図として挿画したのではないかと解釈しました。
・市振
一間へたてゝ表の方にわかき女のこゑ二人はかり聞ゆ年老たるをのこの聲も交りて物語するをきけは越後の國新泻いふ所の遊女なりし
鼇頭奥之細道 下ノ十四(p88-89) 下図5
与謝蕪村 海の見える杜美術館蔵 図10
与謝蕪村 京都国立博物館蔵 下図3
リンク下08-09.
・全昌寺
けふは越前の國へとこゝろ早卒にして堂下にくたるをわかき僧とも紙硯をかゝへ階のもとまて追来る
鼇頭奥之細道 下ノ廿(p96-97) 下図6
与謝蕪村 海の見える杜美術館蔵 図12
注:(京)にはこの場面の画図はない。リンク下14.
・福井(等栽の家を訪ねる)
あやしの小家に夕顔へちまのはひかゝり鶏頭はゝきゝにとほそをかくす扨ハ此うちにこそと門をたゝけハ侘しけなる女の出て
鼇頭奥之細道 下ノ廿一 (p102-103) 下図7
与謝蕪村 京都国立博物館蔵 下図5
リンク16-17.
・山中の別離
曽良は腹を病て伊勢の国長嶌と云所にゆかりあれば先立て行に
与謝蕪村 京都国立博物館蔵 下図4
リンク12-13.
注:(鼇)にはこの場面の挿絵はない。
後記:
蕪村は十作以上の奥の細道の画巻を作ったとされているので、(京)と(海)を(鼇)の原本と断定することはできません。しかし上で見てきた通り、(鼇)は(京)と(海)を網羅的に模写していますので、(京)と(海)から取捨選択して模写した可能性が高く、これは、(鼇)の凡例にある「年月を重ぬるうち細ミち/\と尋ね歩行、書肆に見当りかしこに絵まきありと聞て磊落なるハはぶき、よきは拾ひ本文に並ばせ」という言葉とも一致します。
また、現存する蕪村の4作品では、同じ場面の絵であっても構図が全く同じものはないので、(鼇)の(京)や(海)との構図の類似からも、(鼇)が両者を模写した可能性はかなり高いと思われます。
すると、(鼇)に錯簡があることが問題になります。どの場面の画図かを確認せずに模写するとは考えにくく、特に「(鼇)下図4」に関しては、上巻の画図が下巻の全く違うところに置かれています。一つの可能性として、(鼇)は(京)や(海)の巻物を直接模写したのではなく、巻物から画図だけを抜き出した画集のようなもから、更に模写したというようなことが考えられるかもしれません。この場合、(京)では画集を模写し、(海)では実物の巻物を模写したというような可能性も考えられると思います。
また、(海)(京)には共に模本が現存することにも留意すべきかもしれません。
画図一覧表
(鼇)の下段は模写したと思われる画巻
(海)は全一巻、(山)は六曲屏風一帖
(了)は順番不明、参考文献に(一部錯簡があるが、原文通りの順序に正した。)とある。
場面 | (鼇) | (京) | (海) | (逸) | (山) | (了) |
1旅立ち | 上1 (京)上1 |
上1 | 1 | 上1 | 1(一曲) | ○ |
2那須 | 上2 (京)上2 |
上2 | 2 |
上2 | 2(二曲) | ○ |
3須賀川 | 上3 (海)3 |
上3 | 3 | 上3 | 3(三曲) | ○ |
4佐藤庄司 | 上4 (京)上4 |
上4 | 4 | 上4 | 4(三曲) | ○ |
5飯塚 | 下4(錯簡) (京)上5 |
上5 | --- | --- | --- | --- |
6壷の碑 | 上5 (京)上6 |
上6 | 5 | 上5 | --- | --- |
7琵琶法師 | 上6 (京)上7 |
上7 | 6 | 上6 | 5(四曲) | ○ |
8塩釜から松島 | 上7 (京)上8 |
上8 | 7 | --- | --- | --- |
9平泉 | --- | --- | --- | 上7 | --- | --- |
10尿前の関 | 下1 (京)上9 |
上9 | --- | 下1 | --- | --- |
11山刀伐峠越え | 下2 (京)下1 (海)8 |
下1 |
8 | 下2 | 6(四曲) | ○ |
12鶴が岡 | 下3(出羽) (京)下2 |
下2 | 9 | 下3 (酒田) |
7(五曲) | ○ |
5越後路(飯塚) | 下4(錯簡) (京)上5 |
上5 | --- | --- | --- | --- |
13市振 | 下5 (海)10 |
下3 | 10 | 下4 | 8(六曲) | ○ |
14別離 | --- | 下4 | 11 | 下5 | --- | --- |
15全昌寺 | 下6 (海)12 |
--- | 12 | 下6 | --- | --- |
16等栽の家 | 下7 (京)下5 |
下5 | 13 | 下7 | --- | ○ |
17大垣 | --- | --- | --- | 下8 | 9(六曲) | --- |
引用文献
・与謝蕪村 翔けめぐる創意 MIHO MUSEUM (縮小カラー)
海の見える杜美術館蔵 与謝蕪村 奥の細道
その他 与謝蕪村 奥の細道 00表紙と参考文献
・(了)柿衞文庫蔵・了川模本
蕉村全集 (第6巻) 絵画・遺墨
著者:尾形 仂 佐々木 丞平 岡田 彰子 出版:講談社
・(海)の模本 徳川美術館蔵 当方未見
・(京)の模本 横井金谷 文化遺産オンライン 当方未見
2019.9.28
2019.10.3
2019.10.27