松嶋図誌といえば、芭蕉の一番有名な俳句「松島やああ松島や松島や」が載っているということで有名な本です。もちろんこの句は芭蕉の作ではありませんし、松嶋図誌にも芭蕉の作と書かれているわけではありません。実際は松島に関する作品の一つとして田原坊の狂歌が取り上げられているだけです。
松嶋図誌 桜田質 著 東沢 画 国文研
相模州 田原坊
松島やさてまつしまや松島や
芭蕉に関しては次のように書かれています。
或云芭蕉翁此地に来りて風景を賞せしが詞
の及ばざる事をしりて終に一句を得ずして
去りぬほどへて家に帰りし後に得たる句と
て
朝よさを誰まつしまそかたこゝろ
「朝よさを・・・」の俳句は、奥の細道の旅の前に詠まれたと言われているので、「家に帰りし後に得たる句」というのは誤りといえるかもしれませんが、「芭蕉翁此の地に来たりて風景を賞せしが詞の及ばざる事をしりて終いに一句を得ずして去りぬ」というのは、奥の細道の「造化の天工いつれの人か筆をふるひ詞を盡さむ」や「予ハ口をとちて眠らんとしていねられす」というような記述と合致しています。
しかしこういうものは文脈が全てと言えます。奥の細道の文脈で、「松島の眺めに圧倒されて一句も詠めなかった」と言えば深淵な情景が浮かびます。しかしこれが観光案内で、「あの松尾芭蕉も松島の眺めに圧倒されて一句も詠めなかったんですよ」と言った場合、松島の風景を引き立てるために芭蕉は戯画化されることになり、「芭蕉は松島の風景に圧倒されて、松島やああ松島や松島や としいう俳句しか作れなかった。」というような伝説になるのかもしれません。こういうものは全国各地にある、「西行戻し」や「宗祇戻し」の伝説と似たものと言えるかもしれません。
松嶋図誌 国文研
○西行もどし松 長老坂右の傍の山上にあり俚俗の説に
西行は 鳥羽院の北面の士なり密に宮女に通せしが
其女度かさなればあこぎと云しに西行其詞を觧(げ)せず
僧となり諸国を巡りて爰に至る道の傍松の下に牛に草
かふ翁ありて其牛飽ざる事をあこぎなりと罵りけれは
西行これを聞て翁に問しに 伊勢の海阿漕がうらに
ひく網も度かさなればあらはれそする といふ哥を以て答ふ
西行耻て此處より帰れり依て西行もどしの松といふ
翁は即松嶋の明神なりとぞ
一説に西行松嶋に來る道の入口にて童子(どうじ)の牛をひく
にあふて和歌をよめりける 月にそふ桂男の通ひ来て
すゝきはらむは誰子なるらん 童子きゝて 雨もふり
霞もかゝり霧もふりてはらむすゝきはたが子なるらん
とよみしかば西行大に耻て側(かたハら)なる桜を手折しるべと
して帰りぬ今その桜はかれて松の大木あり其童子
は松嶋の鎮守山王権現の化身也とぞ(松もかれて今はなしたゞ長老石
とて石あり僧の形に似たり)
天理図書館善本叢書 和書之部 第10巻
曽良旅日記
(二十七オ)
○宗祇もとし橋白河ノ町より(石山より入口)
右かしまへ行道ゑた町有
其きわニ成程かすか成橋也
(二十七ウ)
むかし結城殿数代白河を知給フ
時一家衆寄合かしまニて連哥
有時難句有之いつれも三日
付ル事不成宗祇旅行ノ宿 [事]判読難
ニテ被聞之て其所へ被趣
時四十計ノ女出向宗祇に
いか成事ニテいつ方へ と問右ノ
由尓々女それハ先(さキ)に付侍りし
と答てうせぬ [答て][答けるて][ける]消す
月日に下に独りこそすめ
付句
かきおくる文のをくにハ名をとめて
ト申けれは宗祇かんしられて
もとられけりト云傳
宗祇戻の別バージョンを白河風土記で見てみたいと思います。
白河風土記 二下 国会図書館
宗祇戻
町の尾穢多町へうつる小坂の所を云
古城主小峯禅正少弼政朝文明十三年
三月十五日鹿島の神前にて一日一
萬句の連歌興行のとき宗祇も此
地へはる/\下りけるに三拾三間堂の
前を通りしに賤女の鹿島の方より
来りけるに萬句興行の事を問
ふに賤女萬句ハはや満尾したるよし
答へけれハ此所より宗祇は帰り
けるよつて宗祇戻と云なり此時賤女
の綿を持たるを宗祇見てその綿ハ
賣りと重ねて問けれハ賤女答て
阿武隈の川瀬にすめる鮎に社 [社(こそ)]
うるかといへるわたハ有りけれ
宗祇是を聞て東の奥の賤女かやう
の答へ奇なりとて感しけると也
これらの「西行戻し」や「宗祇戻し」のような話は全国各地にあります。この話の特徴は、「歌の権威」や「知の権威」や「ホラ吹きの権威」などが地元のたわいのない者に負けて退散するというものです。そして更にこの類型の話は、奥の細道の「中山温泉」にも出てきます。
おくのほそ道 素龍筆 井筒屋本
44b
あるしとする物ハ久米之助とて
いまた小童也かれか父誹諧を
好ミ洛の貞室若輩のむかし
爰に来りし比風雅に辱し
められて洛に帰て貞徳の門人
45a
となつて世にしらる功名の
後此一村判詞の料を請すと
云今更むかし語とハなりぬ
天理図書館善本叢書 和書之部 第10巻
曽良旅日記
(九十八オ) p275
元禄二年七月廿九日書之
再来ノ時ノ句會有
瓜紅粉ハ末つむ花のゆかり哉
貞室若クシテ彦左衛門ノ時加州山中ノ 時[未廿余トカヤ]加州 消す
湯ヘ入テ宿泉や又兵衛ニ被進俳諧ス甚
恥悔京ニ帰テ始習テ名人トナル(一両年過テ来て俳モヨホスニ所ノ者布而習)以後山中ノ
俳点領ナシニ致遺ス今ノ(又兵へハ)久米之助祖父也
奥の細道では、洛からやってきた若き貞室は久米之助の父の風雅に辱しめられた。とありますが、曽良日記では、久米之助の祖父の又兵衛となっていますので、この違いからもこの話が伝説の類で、先に見た、西行戻しや宗祇戻しの系統の話と言えます。こういした系譜として芭蕉の「松島やああ松島や松島や」も見ることができます。
ところで、芭蕉は松島で俳句を詠でいるとして次の2句が挙げられることがあるようです。
島/\や千ゝに砕けて夏の海 (土芳 蕉翁文集) (奥のしおり)
島/\や千ゝにくたきて夏の海 (土芳 芭蕉全伝付録 ) (俳諧一葉集 [考證])
松島や水を衣装に夏の月 (奥のしおり)
松島や夏を衣裳の水と月 (俳諧一葉集 [考證])
しかし、「島/\や・・・」の句は、土芳が芭蕉の「書捨」の中から拾い出したもので、「松島や・・・」の句は偽作の疑いが濃いものとされています。また先の「朝よさを・・・」の句も「鼻紙のはしにかゝれし句をむなしくすてがたく」書き留めたものですので、これらは芭蕉の公式の作品とは言えません。芭蕉の松島関連の確実な作品としては、「松島眺望集」に収められている次句があります。
武蔵野の月の若ばへや 松嶌種 江戸 青桃 [種(タネ)]
松島眺望集は天和二年(1682)に、大淀三千風により編集出版されたものですから、この俳句は芭蕉が奥の細道へ旅立つ7年以上前の作品ということになります。こうしたことから、芭蕉は松島の眺めを前に、一句も詠めなかったというのは事実であると言えると思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
資料1
日本俳書大系. 篇外 (蕉門俳諧続集) 勝峰晋風 編
桃舐集 露通 撰 国会図書館
あさよさを誰まつしまぞ片こゝろ 芭蕉
翁、執心のあまり常に申されし、名所
のみ雑の句有たき事也。十七字のうち
に季を入、哥枕を用ていさゝか心ざし
をのべがたしと、鼻紙のはしにかゝれ
し句を、むなしくすてがたくこゝにと
ゞむなるべし。
三冊子 しろさうし 服部土芳 著 高桑闌更 遍 宝暦元以前成、安永五刊(1776)
大阪府立大学学術情報センター
朝よさを誰枩しまの片心
此句は季なし師の詞にも名所のミ雑の句にもあり
たし季をとりあハせ哥枕を用る十七文字にハいさゝか心
さし述かたしといへる事も侍る也さの心にてこの句もあり
けるか猶杖つき坂の句有
奥州塩釜松島 舟中一覧 茂林斎 編 文政ニ刊(1819)
弘前市立弘前図書館
芭蕉 松尾氏名桃青初号2風羅房ト1俗稱甚七郎伊賀人 受ケ2業北村季吟ニ為ス2一家ヲ1元禄中没ス
年五十三門人甚多シ皆高名也 予四代祖菅原冨水者随翁ニ而遊フ2松島ニ1得2此真跡ヲ1以蔵レ家故ニ置レ之
あさよさをたか 枩しまそ かたこゝろ 芭蕉庵桃青
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
資料2
奥のしおり 湖月柳条 著 文化十一刊(1814) 早稲田大学図書館
下巻 0033 0034
松島にわたる
枩のみとりこまやに枝葉汐風に
吹たはめて屈曲おのつからため
たるかことし其気色窅然と
して美人の顔を粧ふちはやふる
神のむかし大山すミのなせるわさ
にや造花の天工いつれの人か筆を
ふるひ詞を盡さむ
島/\や千ゝに砕けて夏の海
松島や水を衣装に夏の月
我松嶋の枩といひめるを筈屋
かしける案内の海士にならふて
松の句をもふく
松の花筈屋見に來る序かな
雪まろげ 河合曽良 編 文政版 俳諧名著文庫 第8編
国会図書館
芭蕉翁獨吟歌仙
前書略
松の花苫屋見に來る序かな [序(ついで)]
汐干の沖を知りて行く蝶
日本古典文学全集 小学館 松尾芭蕉集 p481-p482
土芳『蕉翁文集』写本による
松嶋前書
松島は好風扶桑第一の景とかや。古今の人の風情、此
島にのみ思ひよせて、心を尽し、たくみをみぐらす。を
よそ海のよも三里計にて、さま/"\の島/"\、奇曲天工
の妙を刻なせるがごとし。おの/\まつ生茂りて、うる
わしき花やかさ、いはむかたなし。
島/"\や千々にくだけて夏の海
芭蕉伝記の諸問題 今栄蔵 著 新典社 p504
『蕉翁全傅附録』複製
松嶋は好風扶桑第一の景とかや古今の
人の風情この嶋にのみおもひよせて心
を盡したくみをめくらすをよそ海のよ
も三里計にてさま/\の嶋/\奇曲天
工の妙を刻なせるかことくをの/\松
生茂りてうるはしさ花やかさいはむか
たなし
嶋/\や千々にくたきて夏の海
考證
松島
島/\や千々にくたきて夏の海
松しまや夏を衣裳の水と月
陸奥鵆 天野桃隣 早稲田大学図書館
松嶋辨 芭蕉翁
抑松嶋は扶桑第一の好風にして凢洞庭
西湖を恥す東南より海を入て江の中
三里浙江の潮をたゝふ嶋/\の數を
盡して欹ものは天を指ふすものハ波に匍匐
あるは二重にかさなり三重に畳て左にわかれ
右につらなる負るあり抱くあり児孫愛
するかことし松のみとりこまやかに枝葉汐
風に吹たはめて窟曲をのつからためたるかことし
其気色窅然として美人の顔を粧ふ
千早振神の昔大山すみのなせるわさにや
造化の天工いつれの人か筆をふるひ詞を
尽ん予は口を閉て窓を開き風雲
の中に旅寝するこそあやしきまてたへ
なる心地はせらるれ
○松嶋や鶴に身をかれ郭公 曽良
風俗文選(ふうぞくもんぜん) 国文研
松嶋賦 芭蕉翁
そも/\事ふりにたれと。松嶋は扶桑第一の好風
にして。凢洞庭西湖を恥ず。東南より海を入て。江の
中三里。浙江の潮をたゝふ。七十二峯。数百の嶋々。
欹つものは天を指。ふすものは波に匍匐。あるは [指(ユビサシ)]
二重にかさなり。三重にたゝミて。左にわかれ。右につら [たゞミ][ゞ]不明
なる。負るあり。抱るあり。児孫愛するがごとし。内
ふたご。外ふた子。鎧嶋。かぶと嶌。牛嶋。虵しま。内
裏嶋。屏風じま。笆が嶌はあまの小舟漕つれて。 [笆(マガキ)][籬]
肴わかつ聲/\に。つなでかなしもとよみけむ俤を
残し。末の松山は寺となりて。松のひま/\墓を築
て。羽をかはし。枝をならぶる契の末も。終にハ皆かく
のごとしと悲し。野田の玉川。沖の石。宮城のゝ萩。
武隈の松。猶此境に名をならべたり。しほがまの浦にハ。 [隈]
塩がまの明神あり。神前のかな灯篭。文治三年。泉
の三郎奇進と記す。雄嶋が磯は地つゞきにて。雲居 [記(キ)]
禅師の別室のあとに。坐禅石。瑞岩寺ハ。相模守 [座禅石(ザゼンセキ)]
時頼入道の建立。當時三十二世のむかし。真壁平四郎
出家して。入唐帰朝の後開山す。其後伊達政宗再
興して。七堂伽藍となれりける。法蓮寺は。海岩に
峙。老杉影をひたし。花鯨波にひゞく。枩の緑こまや [老杉(ラウサン)影(カゲ)]判読難
かに。枝葉汐風に吹たハめて。屈曲をのつからため
たるがごとし。其気色窅然として。美人の顔を粧ふ。 [顔(カンバセ)]
ちはや振神のむかし。大山ずミのなせるわざにや。造
化の天工。いづれの人か筆をふるひ。詞を盡さむ
資料3
日本俳書大系1 芭蕉一代集 勝峰晋風 編 p90 もとの水
松島や雪の白地の衣くばり [延寶年中 もとの水]