2020年7月23日木曜日

多賀城碑と壷碑と日本総国風土記について

はじめに
 江戸時代17世紀に多賀城跡で発見された多賀城碑について、かつて真偽論争がありました。その偽作説とは、「多賀城碑は仙台藩の命を受けた佐久間洞巌 等により作られた偽作である。」というものでした。(現在では、偽作説は否定されている。) この真偽論争の発端は「多賀城碑」が「壷碑(つぼのいしぶみ)」と関連づけられたことにあるのではないかと思われます。多賀城碑は発見当初から壷碑と関連づけられていたのですが、しかしその根拠が曖昧で、「多賀城碑は壷碑ではない。」との批判が生まれ、更に「多賀城碑は偽作である。」というような論になっていったのではないかと思われます。

多賀城碑と壷碑(つぼほいしぶみ)
 そもそも多賀城碑とは何かというと、まず、京都・蝦夷・常陸・下野・靺鞨(まつかつ)から多賀城までの距離が示されています。そして多賀城は神亀元年(724)に大野朝臣東人により築かれ、天平寶字六年(762)に藤原恵美朝臣朝獦により修復されこの碑が立てられた。ということが書かれています。詳しくは 松尾芭蕉の壷碑と多賀城碑 参照
 では、壷碑(つぼのいしぶみ)とは何かというと、坂上田村麻呂が「日本の中央」と弓の筈で書きつけた巨大な石のことです。それは「ツボ」という地名にあったため壷碑(つぼのいしぶみ)と呼ばれるようになったということです。資料#1.参照

 両者はまったく違うもので、共通するのは「陸奥にある昔の碑」ということくらいです。 そこで、「遠碧軒記」などでは、多賀城碑の裏に田村将軍が「日本の中央」と弓の筈で書きつけた。としています。しかし多賀城碑の裏にはそのようなことは書かれていないので、実際に見ればすぐに嘘? であると分かってしまいます。また「壺」というのは地名ではなく、「城内の壺前栽」に立てられたので「壺」と呼ばれるようになった。というような理由付けがなされています。
 松尾芭蕉の奥の細道(完成本)では、多賀城碑と坂上田村麻呂の伝説とは全く関連づけられず、その理由の説明もなく、「壷碑 市川村多賀城有」 としています。現在も多賀城碑は「壺碑」とも呼ばれることがありますが、そのほとんどは奥の細道と同じく、坂上田村麻呂伝説との関連づけはなされていないようです。
 このような中で、多賀城碑の疑念を払拭するために出されたのが、「壼碑考(コンひこう)」であるように思います。この本では「壺碑(つぼのいしぶみ)」の「壺」の由来は「壺前栽」であるということを前提として、「(つぼ)」の字は誤りで「(こん)」が正しい。という論を展開しています。
 しかしこれだけでは説得力が足りません。そこで「日本総国風土記(日本風土記)」が登場します。日本総国風土記は、奈良時代前後に編纂された地誌とされているのですが、17世紀に作られた偽書であるというのが現在では定説になっています。「壼碑考(コンひこう)」では、日本総国風土記を真正の書として、その記述を基に、多賀城碑が壷碑であることの根拠としています。そしてこのことが問題となります。偽書である日本総国風土記に、どうして「多賀城碑 」が載っているのか? しかも多賀城碑が発見されたのと、日本総国風土記が作られたのはほぼ同じ時期です。当然疑いの目が注がれます。「多賀城碑が壷碑であることを裏付けるために偽書を作ったのではないのか?」 更に疑いは深まり、「仙台藩は歌枕を認定するために、多賀城碑と日本総国風土記をセットで偽作したのではないのか?」 というような陰謀論のようなものにまで発展します。おそらく、多賀城碑が壷碑に関連づけられず、日本総国風土記の記述もなければ、多賀城碑偽作説は生まれなかったのではないかと思います。

 以上、多賀城碑と日本総国風土記との関係の概略を見てきましてが、次に「日本総国風土記」について詳しくみてみたいと思います。

壼碑考と佐久間洞巌の日本総国風土記の写本について

壼碑考は、次の5つの章から成っています。
1.東奥州宮城郡市川邑多賀城址壼碑全圖
2.多賀城古城壼碑考
3.碑面考證
4.壼碑審定説
5.題弘斎審定後 容軒源義和(佐久間洞巌) 誌

この中で、2.と4.に「日本総国風土記」の写しがあります。
 
壼碑考(多賀古城壼碑考) 本郷弘斎(平信恕) 享保元年(1716年)

2.多賀城古城壼碑考 01b
日本風土記曰。陸奥國宮城郡。坪碑。有鴻
之池 今廢ス 為故鎮守ノ門碑。恵美朝獦立之。
見雲真人清書也。記異域本邦之行程ヲ。令
旅人ヲシテ為迷コトヲ

4.壼碑審定説 05a, 05b,06a, 06b
風土記残篇百六
 陸奥國宮城郡(以下三百六十有字在焉。) 畧于玆
坪碑 有鴻之池。為故鎮守府門碑。恵美朝
獦立之。見雲真人清書也。記異域東邦之行
。 令旅人ヲシテ不為迷コトヲ。(自此至。一百有四字存焉。)

4.は正確な写しであり、2.は 本郷弘斎が手を加えたもののようです。
「今廢ス」は、「鴻之池という地名は今はない。」というような意味のようです。また「鎮守」は、「鎮守府」の「府」を削っていますが、これは、多賀城碑本文に「鎮守将軍」とあるので、それに合わせて「府」を削ったのかもしれません。
 しかしこれらの2.の変更については、何の説明もなされていないので、読者は2.を「日本総国風土記」の原文と勘違いしてしまいます。そのためこの後の多賀城碑関連で日本風土記が引用される場合、2.が多く用いられます。日本風土記を批判した、藤井貞幹の「好古小録」でも「今廢二字其義通ゼズ」とこれを原文として批判しています。資料#2参照
  次に、壼碑考で用いた、佐久間洞巌の日本総国風土記の写本について見てみたいと思います。

日本総国風土記残編 写:佐久間洞巌 正徳四年(1714年) 宮城県立図書館
p72
日本総國風土記巻之百六 
 陸奥國宮城郡
 -----略
p73
坪碑 有鴻之池為故鎮守府門碑恵美朝  [有]の右に[在]との書き込みあり
獦立之見雲真人清書也記異域東邦之行
程令旅人不為迷塗

この洞巌写本は、田邉希賢の写本からのものです。希賢は京都の儒学者だったのですが、仙台藩に召し抱えられ仙台藩儒となります。佐久間写本の来歴に次のようにあります。

p77
右十有三國風土記残編者八幡社士栢村
某之所蔵也近方求之而摹寫焉時維正德
改元次辛卯臘月二十八日夜揮毫于神州
客舎燈下
             田邉希賢

「八幡社士栢村某之所蔵也」この記述からだけでは、何処の誰の所持する本を希賢が書写したのかわかりませんが、正徳元年12月28日(1712年2月)に書写したということはわかります。つまり、希賢写本が1712年、それを書写した洞巌写本が1714年、これを用いた壼碑考が1716年ということになります。

また、洞巌写本には、新井白石に総国風土記が偽書である可能性を指摘されたという記述があります。

 p04
 白石先生曰看来レハ則此書難信者往々有之盖贋書歟以可疑者多

これは、目次の部分に書かれているので、洞巌が書写した時にはすでにこれが偽書であるとの指摘を受けていたとみることができます。しかしこの本の最後に、洞巌の研究者? と思える人物のメモ書きがあります。

p80
本書は正德四年佐久間洞巌が田辺希賢
の蔵書を借りて書写したもので、壷碑の
筆者を見雲真人と考えるきっかけになった
ものである。日本総國風土記残編は江戸時代
初期までに成った偽書であることは当時新井白
石も指摘した通りである。洞巌も亨保五年前後
に白石からその旨教示を受けている、本書の目録
末尾の書入れはその頃のものであろう。
昭、四九、三         安倍

 このメモからすると、p04は亨保五年(1720)頃に後から書かれたということになります。洞巌と白石との書簡にそのような記述があるのかもしれません。しかし、p04を見た限りでは、後から付け足したようには見えません。

 総国風土記は偽書ということだけでなく、本文に後から手が加えられていたり、偽書と知っていて、真正の書として用いていたのではないのか? など色々な問題があるのですが、「恵美朝獦」の記述について更に不自然な点があります。次に総国風土記の13本を比較して見てみます。

a.日本惣国風土記 4巻 国会図書館
安政5(1853) 藤原正方写
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2566395/18
 
b.日本惣国風土記残冊 全 国会図書館 
嘉慶二年二月上旬(1388年) 左羽林郎藤原元隆
寶永六丑年三月下臻(1709年)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2539600/66

c.日本惣國風土記 
天正二年三月下旬(1574年) 権少外記中原忠胤 
高知県立高知城歴史博物館 山内文庫 ヤ291‐72
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100089512/viewer/49

d.残編風土記 早稲田大学 上田 百樹 
嘉慶二年乙丑七月下旬(1388年) 左羽林郎藤原元隆 (嘉慶二年は戊辰が正しい)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_03163/i04_03163_0223/i04_03163_0223_0002/i04_03163_0223_0002_p0050.jpg
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_03163/i04_03163_0223/i04_03163_0223_0002/i04_03163_0223_0002_p0049.jpg
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i04/i04_03163_0223/index.html

e.日本惣国風土記 第二冊 早稲田大学
嘉慶二年三月(1388年) 左羽林郎元隆
右以師家之蔵本書寫之 多田正仲
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_01494/ru03_01494_0002/ru03_01494_0002_p0048.jpg
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru03/ru03_01494/index.html

f.日本總國風土記 大和文華館   
嘉慶三年三月中旬(1389年) 藤原元隆
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100134947/viewer/118

g.風土記 奈良女子大学学術情報センター
安永八年巳亥季春(1779年) 荒木田神主経雅
安永八年巳亥十一月廿四日 本居宣長
安永九年庚子三月廿九日(1780年) 正五位度會神主正均
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100258230/viewer/54 

h.日本惣国風土記 全 早稲田大学 
寛文十年庚戌七月六日(1670年) 大納言源通村
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_03132/ru03_03132_p0042.jpg
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru03/ru03_03132/index.html

i.日本惣國風土記 茨城県立歴史館
天保九戊戌年九月十二日(1838年) 三村山人信
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100224244/viewer/154 

j.日本総国風土記残編 宮城県立図書館
享保七年壬寅之夏(1722年)  羽林中郎将吉村(仙台藩五代藩主)

s.日本総国風土記残編 巻之百六
嘉慶二年二月上旬 左中将藤原元隆
正徳改元次辛卯臘月二十八日(1712年2月5日頃) 田邉希賢
正徳四年甲年中秋八日(1714年9月18日頃) 五城楼下 源義和(佐久洞巌) 
仙台叢書. 第18(翻刻)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185931/107

t.壼碑考(多賀古城壼碑考) 本郷弘斎(平信恕) 享保元年(1716年)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2535767/4
奥羽觀蹟聞老誌  佐久間洞巌  初出:享保4(1719年) 
上記の壼碑考と同じ記述 (送り仮名など異なる部分もある)

y.奥州宮城郡市川村多賀城址壼碑圖 天明元年(1781年)
http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/ags/1-2-3-020b.jpg

1.
a.坪碑有・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
b.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
c.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
d.坪有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之 [][石+里]
e.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
f.坪碑有・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
g.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
h.坪碑有・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
i.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美朝獦立之
j.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美朝獦立之
s.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美朝獦立之
t.坪碑有鴻之池今廢・・・ 為故鎮守門碑恵美朝獦立之
y.坪碑鴻之池鴻之池名今癈為故鎮守府門碑恵美朝獦立之
2.
a.見雲人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷塗
b.見雲真人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷塗
c.見雲真人清書也記異域邦之行程令旅人不為迷塗
d.見雲真人清書也記異之行程令旅人不為迷塗
e.見雲真人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷塗
f.見雲人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷塗
g.見雲真人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷塗 [域][城]上書き訂正か?
h.見雲真人清書也記異本邦之行程令旅人不為迷塗
i.見雲真人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷
j.見雲真人清書也記異域邦之行程令旅人不為迷塗
s.見雲真人清書也記異域邦之行程令旅人不為迷塗
t.見雲真人清書也記異域邦之行程令旅人不為迷塗
y.見雲真人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷

どちらが正しいかは別として、上記の「鴻と嶋」「池と地」「道と真」「城と域」「東と本」「邦と郡」これらは似た文字の写し間違いとみることができます。しかし「押勝と朝獦」は文字の類似はみられません。(押勝は朝獦の父親で藤原朝臣仲麻呂のことです。)
 朝獦と表記されている、i.j.s.t.y. のうち、j.は伊達從五位藏本で、田邉写本 或いは s.(佐久間写本)からの写本と考えられます。y.(多賀城壼碑案内図)は、t.(壼碑考)を基に作成されたと考えられます。つまり、j.s.t.y.は佐久間洞巌関係の写本ということになります。そして、i.を見てみると、「令旅人不為迷」となっています。これはy.と同じ表記になっています。i.が書写された年代などからすると、i.はy.を参考にこの部分を書写した可能性が考えられます。また、押勝と表記されているa.~g.は、「押勝」の右に「朝獦」と誤りを訂正する書き込みがあります。

恵美押勝と恵美朝獦について
上記からすると、総国風土記ではもともとは「押勝」と表記していたのが、佐久間写本以降に「朝獦」に変更された疑いがあります。では、どうしてそうなったのか理由を考えてみたいと思います。
 多賀城碑の文面については以前詳しく見ましたが、多賀城碑を作ったのは「藤原恵美朝臣朝獦」です。しかし「獦」の文字は判読困難で、佐久洞巌の精巧な拓本により初めて判読できるようになったと考えられます。それ以前の「一目玉鉾」などでは、「藤原恵美朝臣」とされています。藤原恵美朝臣はいわゆるファミリーネームのようなもので、父親の押勝と息子の朝獦との区別がつきません。そこで総国風土記の作者は、有名な「押勝」を充ててしまったのかもしれません。これは、多賀城碑の文字が判読されていない内はよかったのですが、佐久間洞巌の拓本によりその文字が「朝獦」と判読されると、文面との齟齬によりジレンマが生じます。それは、碑の文面が正しいのなら、総国風土記が偽物であり、総国風土記の文面が正しいのなら碑は偽物ということになってしまうということです。そこで、田邉希賢 或いは 佐久間洞巌は、拓本に合わせて「押勝」を「朝獦」に改変したのではないかと考えられるのです。

 本郷弘斎や佐久間洞巌は、壼碑考で、[「今廢ス」の挿入。「鎮守府」を「鎮守」に変更。] を明示的(比較すればわかるという意味で)に行いましたが、最大の問題である「朝獦」への変更については写本そのものに変更を加えたということになります。この改変はかなり効果的で、本文と比べた場合、どこまでが改変か容易には見分けられません。先に見たa.~g.では、「押勝」を「朝獦」の誤りと訂正しています。訂正した者は、「本来は朝獦と記述されていたものが押勝と誤記されている。」と考えたということになります。つまり改変した佐久間写本がスタンダードとなっているのです。これは、y.(多賀城址壼碑圖)を大量に発行し、改変した総国風土記を世の中に広めたことも大きく貢献しているかもしれません。

芭蕉自筆 奥の細道の貼紙前の文章について
今回、総国風土記について調べてみて、佐久間洞巌の拓本以前には、「藤原恵美朝臣朝獦」の「獦」の文字は判読されてなかった可能性が極めて高いことが改めてわかりました。(下記一覧参照) しかし先に見たように松尾芭蕉の奥の細道の自筆本の貼紙の下には、「朝獦」を「朝狩」と解読した記述がありました。芭蕉が亡くなったのは、元禄7年(1697)で、佐久間洞巌が拓本をとったのは元禄十二年(1699)ですから、少なくとも2年以上前に芭蕉は「朝狩」と解読していたということになります。もちろん、続日本紀と多賀城碑を照合して「朝狩」を割り出すことは可能かもしれませんが、それは続日本紀の研究者でもなければ無理だと思います。この観点からすると、奥の細道の芭蕉自筆本は、壼碑考の出版された1716年以降に作られた可能性が高いように思われます。つまりそれは芭蕉の自筆本ではないことを意味します。 松尾芭蕉の壷碑と多賀城碑について 参照

芭蕉自筆 奥の細道 上野 洋三  櫻井 武次郎   岩波書店
本文篇 (貼紙の前の文章) p87
市川村多賀の城は往昔境守の
舘舎也つほの石碑このところに
あり凡竪七尺あまり横五尺
計にみゆ苔を穿て文字か
すかなり四維国界の道の数
里をきさむ造栄[営]鎮守苻
将軍陸奥守朝狩と有おなしく
安察使何某修造を加えて神亀
宝字六年霜月と印ス聖武
皇帝の御時にあたれり

藤原恵美朝臣朝獦 表記一覧
(松) 松島風土記 仙台市博物館調査研究報告 第15号
(遠) 遠碧軒記 下之三 著:黒川道祐 延宝3年(1675) 編:難波宗建 宝暦6年(1756)
日本随筆大成第一期 10 関根正直・和田英松・田辺勝哉監修 吉川弘文館 p147
(眺) 松島眺望集 大淀三千風  天和2年(1682)
(玉) 一目玉鉾 井原西鶴 元禄二年 (1689)
(日) 曽良旅日記 天理図書館善本叢書 和書之部 第10巻
(蕉) 壷碑写し おくのほそ道図譜 朝日新聞社編
(奥前) 芭蕉自筆 奥の細道 貼紙訂正前 岩波書店
(奥) 芭蕉自筆 奥の細道  岩波書店
(州) 奥州道中記 元禄7年(1694) 相愛大学図書館
(鵆) 陸奥鵆  桃隣 元禄10(1697) 早稲田大学図書館
(国) 国花万葉記  菊本賀保 元禄10(1697) 巻11 54a 54b 早稲田大学図書館
(続) 続俗説弁 井沢長秀 宝永5年(1708) (公益俗説辯)
(和) 和漢三才圖會 寺島良安 正德二年(1712年)
   巻第六十五図会 地部 陸奥國 国会図書館
(壼) 壼碑考(多賀古城壼碑考) 本郷弘斎(平信恕) 享保元年(1716年)

(松)寛文13年(1673)    藤原恵美朝臣朝
(遠)延宝3年(1675)    藤原朝臣恵美
()天和2年(1682)    藤原恵美朝臣朝𤢥 [犭萬]
()元禄2年(1689)    藤原恵美朝臣
(日)元禄4年(1691)以降  藤原恵美朝臣朝
(蕉)元禄4年(1691)以降  藤原恵美朝臣
(奥前)元禄4年(1691)以降 陸奥守朝狩
(奥)元禄4年(1691)以降  恵美朝臣𤢥    [犭萬]
()元禄7年(1694)    藤原恵美朝臣
()元禄10年(1697)    藤原恵美朝臣朝𤢥 [犭萬]
()元禄10年(1697)    藤原の恵美朝臣
()宝永5年(1708)    藤原恵美朝臣 [藤原恵美朝臣修造(カクル)也]
()正德2年(1712)    藤原恵美朝臣 藤原恵美朝臣朝[亻葛]
()享保元年(1716)    藤原恵美朝臣朝獦

この他、新井白石が著した「同文通考」正徳年間(1711~1716) の写本A. B.には、「藤原恵美朝臣朝獦」との記述があります。しかし、宝暦10年(1760)の刊本には「藤原恵美朝臣獦」と「朝」の字が欠落しています。更に別な写本C. には、「藤原恵美朝臣朝勝」とあります。([勝]の字の上に[臈]の字の書き込みあります)。
新井白石も同文通考の時点では、「獦」を判読できていなかった可能性が高いように思えます。

同文通考 A.早稲田大学図書館 B.お茶の水女子大学図書館 C.祐徳稲荷神社

おわりに
 今回の記事は前回の「松尾芭蕉の壷碑と多賀城碑について」の註釈として書いたのですが、総国風土記が偽書であるばかりか、それを真正の書という建前の元に、更に改変するというような複雑怪奇なことが行われていて、註釈では収まらないので、新しく項目を立てました。
 私見を言えば、壼碑考で、「壷(ツボ)」は「壼(コン)」の誤りであるとする論を展開しているのは、論点をズラすのによく使われる手であるように思えます。「ツボ」という地名については論ぜずに、そもそも「ツボ」という文字は誤りで「コン」が正しいとすることで、議論の矛先を変えようとしているように思えるのです。
 また、仙台叢書の鈴木雨香の「日本総国風土記残篇の後に書す」についても、不自然な点があります。雨香は「抑此書の我か仙臺に顕はれたることをいへは、仙臺藩儒田邉希賢か、延寶中仙臺藩に召し抱へられし際、京都より持ち下りたるを始めとなす、」と書いていますが、先に見た通りこの写本の来歴には、希賢が書写したのは「正徳元年12月28日(1712年2月)」と書かれていますので、延寶(1680年頃)とは少なくとも30年以上の開きがあります。
 更に、雨香は、藤井貞幹の「好古小録」の「今廢二字其義通ゼズ」との批判に対して、「今廢の二字は池の廢されたるをいへるものにして亦不都合なかるべし」と反論していますが、「今廢」の二字はこの写本にはありません。この二字は先に見た通り、「壼碑考」と「奥羽觀蹟聞老誌」で付け足されたものです。つまり雨香は、この二字が壼碑考で付け足されたことも否定しているということになります。そしてこの反論は、y.(多賀城壼碑案内図)の「鴻之池名今癈」を敷衍しているもので、つまりy.の「鴻之池名今癈」は「今廢」の説明のために更に改変されたものであると言えます。このような、偽書を真正の書という建前で、反論や事実に合わせて改変して行くというような手法は、偽書の常套手段なのかもしれません。

資料
#1.
袖中抄  顕昭 12世紀成立 慶安4(1651)版 19.28  19.29 早稲田大学図書館
いしふミ
  いしふミやけふのせはぬのはつ/\に
  あひみてもなをあかぬけさかな
 顕彰いういしふミとハ 陸奥のをくにつもの
 いしふミあり日本のはてといへり但田村
 将軍征夷之時弓のはすにて石の面に
 日本の中央のよしをかきつけたれハ石文(イシフミ)
 といふといへり信家侍従の申しハ石の面
 なかさ四五丈許なるに文ゑりつけたり
 そのところをハつほと云 云々 それをつも
 とはいふ也私云みちのくにハ東のはてと
 思へとゑその嶋ハおほくて千嶋ともいふ
 ハ陸地をいハんに日本の中央にても侍に
 こそ

#2.
好古小録 寛政七年乙卯九月(1795) 藤井貞幹 国会図書館
 上巻 一七 陸奥國多賀城碑
壼碑考スル陸奥國風土記残篇疑クハ後人偽作ナラム
イマ其文中解スベカラザルシテ識者訂正
○陸奥風土記残篇云陸奥國宮城郡坪碑在鴻之池今廢
(鎮守府門碑宮城郡坪碑トハベカラズ 今廢二字其義通ゼズ)
為故鎮守門碑
(故鎮守故字其義通ゼズ門碑フベシ)
恵美朝獦立之見雲真人清書也
(清書二字至拙疑フベシ)
記異域東邦之行程
(異域東邦之行程其意通ゼズ)
令旅人不為迷塗
(國界ルノ里数スノミニテハザラシムト云大簡ナラズヤ以テ塗ニ迷ハザル旅人アラハ一奇ベシ)

2020.7.31

与謝蕪村 奥の細道 上巻
与謝蕪村 奥の細道 下巻
12-13. 14. 15. 16-17. 18.


表紙 000 
1.序章 001 002 003.03
2.旅立 003.03 004 
3.草加 005 006.05
4.室の八島 006.06 007.05
5.仏五左衛門 007.06 008 009.01
6.日光 009.02 010 011 012.03
7.那須 012.04 013 014.06
8.黒羽 014.07 015 016.07
9.雲巌寺 016.08 017 018 19.07
10.殺生石・遊行柳 19.08 020 021.02
11.白河の関 021.03 022.06
12.須賀川 022.07 023 024 025.05
13.あさか山 025.06 026.06
14.しのぶの里 026.06 027.07
15.佐藤庄司が旧跡 027.08 028 029.07
16.飯塚 029.07 030 031.08
17.笠島 031.08 032 033.03
18.武隈 033.04 034 035.01
19.宮城野 035.02 036 037.04
20.壺の碑 037.05 038 039 040.03
21.末の松山 040.04 041 042.04
22.塩竈 042.04 043 044.04
23.松島 044.05 045 046 047 048 049.05
24.石巻 049.06 050 051.07
25.平泉 051.08 052
053 054 055.01
26.尿前の関 055.02 056 057 058 059.01
27.尾花沢 059.02 060.03
28.立石寺 060.04 061
29.最上川 062