与謝蕪村は奥の細道の画巻類を、10作品程成したようです。そのうち4作品が現存し、1作品の模写が残っています。
今回当ブログでは、 これらの作品の原文を比較し蕪村が参照した底本について考えてみたいと思います。
比較に当たり用いる文献は以下の通りです。
(版).元禄版おくのほそ道: 奥の細道 : 素竜本 野村宗朔 編 大倉広文堂 (明和版系)をベースに、国文研鵜飼 02元禄K などを参照
(了).柿衞文庫蔵・了川模本: 引用資料:蕉村全集 (第6巻) 絵画・遺墨 著者:尾形仂 佐々木丞平 岡田彰子 出版:講談社/ 蕪村筆「奥の細道画巻」について 岡田彰子 サピエンチア 英知大学論叢 第22号 1988年 聖トマス大学 p235 (十八)
(海).海の見える杜美術館蔵: 引用資料:与謝蕪村 翔けめぐる創意 MIHO MUSEUM/ 若冲と蕪村 生誕三百年同い年の天才絵師
(京).京都国立博物館蔵: 底本:奥之細道 出版者:村山旬吾 昭和7 印刷所:國華社
(山).山形美術館蔵 屏風 引用資料:与謝蕪村 翔けめぐる創意 MIHO MUSEUM/ 見ながら読む芭蕉の旅 奥の細道 学研
(逸).逸翁美術館蔵 引用資料:奥の細道画巻 解説・翻刻 岡田利兵衛 豊書房
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与謝蕪村の奥の細道の底本は、「明和版おくのほそ道」であるというのが定説となっているようです。それは、岡田利兵衛氏の次の一文によるようです。
これら画巻を蕪村は「明和七年寅年十月」の奥書がある蝶夢本「おくのほそ道」によってかいている。それは初めて上梓する際、清書本を誤読した文中三カ所の誤りをそのまま写していることによってわかる。
『俳画の美 』岡田利兵衛著 豊書房この論を更に推し進めて、岡田彰子氏が『元禄版おくのほそ道』(雲英末雄編)による素龍清書本と、井筒屋元禄版の異同表を基に、5ヶ所の異同の対照を試みています。
20a.03
(清).山崩川流て
(版).山崩川落て
(了).山崩川落て
(海).山崩川落て
(京).山崩川落て
(山).山崩川落て
(逸).山崩川落て
23a.02
(清).波に圃匐
(版).波に匍匐
(了).波に匍匐
(海).波に匍匐
(京).波に匍匐
(山).波に匍匐
(逸).波に匍匐
30b.05
(清).開基にして
(版).開基に・て
(了).開基に・て
(海).開基に・て
(京).開基にして
(山).開基に・て
(逸).開基にして
33a.08
(清).出羽といへるは
(版).出羽といへるも
(了).出羽といへるも [参考文献に影印がないため当方未確認]
(海).出羽といへるも
(京).出羽といへるも
(山).出羽といへるも
(逸).出羽といへるも
46b.01
(清). 庭掃て出はや
(版). 庭掃て出るや
(了). 庭掃て出るや
(海). 庭掃て出るや
(京). 庭掃て出るや
(山). 庭掃て出るや
(逸). 庭掃て出るや
そして次のように結論づけています。
「明和版は、本文から無署名の跋に至るまで、五十四丁分にわたって元禄版の板木をそのまま使用し」たものであるから元禄版を明和七年本とみなす。
次の図表によって蕪村が明和七年版本(蝶夢本)を用いたということが明らかである。
蕪村筆「奥の細道画巻」について 岡田彰子 サピエンチア 英知大学論叢 第22号 1988年 聖トマス大学 p248(五)
しかしこの結論はかなり乱暴のように思われます。明和版が元禄版と同じ板木を使っているからと言って、蕪村の奥の細道が明和版を底本にしているとは限りません。元禄版を底本にしているかもしれないのです。つまりこの論文から分かることは、蕪村の奥の細道は「元禄版もしくは明和版を底本にしている。」ということであって、蕪村が明和版を用いたということは明らかにはなっていないのです。
では、蕪村の奥の細道が明和版を底本にしていることを証明するにはどうすればよいでしょうか? それは元禄版と明和版の違いを基に蕪村の奥の細道を対照すればよいのです。
実は明和版には文字の欠損が多数あり、元禄版との差異が数多く見られます。この差異を利用して寛政版は元禄版の被せ彫りである。というようなことは容易に証明できるのですが、しかし単なる文字の欠損の場合、前後の文脈などからその文字を類推して修正されてしまいます。そこで、単なる文字の欠損ではなく、それが欠損であることにも気づかないような欠損箇所を探さなければならないのですが、明和版には一箇所だけこれに該当する箇所があります。
元禄版08a.08-08b.01
与市扇の的を射し時別してハ 我国氏神正八まんとちかひしも
元禄A・B・C 元禄K 元禄R 元禄SI 元禄G1・G2 元禄TZ 元禄KM
明和版08a.08-08b.01(参照ページ)
与市扇の的を射し時別して・ 我国氏神正八まんとちかひしも
明和G 明和I 明和R 明和H 明和HO 明和W 明和N 元禄T注*
明和版では「ハ」が欠落しています。元禄版ではわずかな摩滅が見られるだけなのに、明和版では完全に欠落しています。もしかすると、明和版では故意に「ハ」を削った可能性も考えられます。この点については後ほどもう少し詳しく見てみる予定です。
そして蕪村の奥の細道もこの部分の「ハ」がすべて欠落しています。
別して我国
(了).与市扇の的・を射し時別して・ 我國氏神正八幡・とちかひしも
(海).与市扇の的・を射し時別して・ 我國氏神正八幡・とちかひしも
(京).与市扇のまとを射し時別して・ 我國氏神正八まんとちかひしも
(山).与市扇の的・を射し時別して・ 我国氏神正八まんとちかひしも
(逸).与市扇の的・を射し時別して・ 我國氏神正八まんとちかひしも
更に補強として、元禄版の重版後に欠損したと思われる文字も見てみたいと思います。
41a.04(出つゝ)
・元禄A・B・C 元禄K 元禄R 元禄SI 元禄G1・G2 元禄TZ 元禄KM
・明和G 明和I 明和R 明和H 明和HO 明和W 明和N 元禄T注*
元禄C 元禄G1 明和版では、「つゝ」の「ゝ」の部分が欠損しているために「出つ」と読めてしまいます。蕪村の奥の細道でもこの部分は「出つ」となっています。
(了).恙・・なかるへしと云捨・て出つ・
(海).恙・・なかるへしと云すてゝ出つ・
(京).恙・・なかるへしと云捨・て出つ・
(山).恙・・なかるへしと云捨・て出つ・
(逸).つゝかなかるへしと云すてゝ出つ・
「つゝ」の欠損の一致により、蕪村は元禄版の重版後の版を底本にしていたと断定でき、先の「ハ」の欠落を併せるて考えると、蕪村は明和版を底本にしていたとほぼ断定できます。
注*: 元禄Tは明和版以降の版である 参照
比較として、蕪村と同じ時期に、東馬林という人物により書写された「奥のほそ道」を見てみると、先の元禄版の5つの誤りは見られますが、「別しては」「出つゝ」の欠落は見られません。つまり東馬林は、元禄版を基に書写したと言えます。
・07元禄写W4 早稲田大学図書館 奥のほそ道
安永七戊戌年弥生中七日写畢 東馬林 / 別しては/ 出つゝ
ところで、先の清書本との対照にある「開基にして」についてなのですが、これは清書本の「尓(に)し」を元禄版に写す時に「耳(に)」と読み違えたものです。
30b.05
(版).開基にて (清).開基にして
蕪村の(了).(海).(山).は版本と同じく「開基にて」となっているのですが、(京).(逸).は清書本と同じく「開基にして」と表記されています。これを一体どのように考えればよいのでしょうか? 一度「開基にて」と読んだものを、「開基にして」と読み替えることは可能でしょうか? また、(山)よりも先に作られた(京)と、(山)より後に作られた(逸)で「開基にして」となっているというのはどうしてなのでしょうか? これらの点について次のファイルを基に、(版).(了).(海).(京).(山).(逸).を対照して考えて行きたいと思います。
2020.2.9. v01.2020.01.18.
(無断転載はお断りします。)
2020年1月14日
Part.2