2020年5月21日木曜日

与謝蕪村 奥の細道画巻(逸翁美術館蔵)と鼇頭奥之細道と多賀城址壼碑図について

先に「鼇頭奥之細道(ごうとうおくのほそみち)」と与謝蕪村の奥の細道画巻とを比較検討し、(鼇)の挿絵に関しては、(海)と(京)が用いられている可能性が高いと結論付けました。
鼇頭奥之細道と与謝蕪村の奥の細道の画図について

しかし、(鼇)の「壺の碑」については他の絵とは別に考えないといけないかもしれません。そこでまず、(逸)と類似する「壷の碑図」に関する一連の解説の文章について見てみたいと思います。

与謝蕪村奥の細道逸翁美術館蔵(逸)

日本風土記曰陸奥國宮城郡坪碑在鴻之池
為故鎮守府門碑恵美朝獦立之見雲真人
清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷途
 みちのくのいはてしのふハえそしらぬ書つくしてよつほの碑 右大将 源頼朝
 陸奥ハおくゆかしくそおもほゆるつほのいしふミそとのはま風 西行
多賀城事始見續日本記聖武皇帝天平九年
夏四月記
神亀元年甲子廼聖武帝元年至安永八年巳亥
千七十五年
天平寶字六年壬寅廼廢帝四年至安永八年 *[寅廼]墨で消えている
巳亥千三十七年
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鼇頭奥之細道(鼇) 上ノ十九 (p42)

01.日本風土記曰陸奥國宮城郡坪碑在鴻之池為故鎮守府
02.門碑恵美朝獦立之見雲真人清書也記異城本邦之
03.行程令旅人不為迷途
04.   ミちのくのいはてしのふえそしらぬ
05.    書つくしてよつほのいしふみ 右大將頼朝
06.   みちのくハおくゆかしくそおもほゆる
07.    つほのいしふミそとのはまかせ  西行法師
08.多賀城事始見続日本記聖武皇帝天平九年夏
09.四月記神龜元年甲子迺聖武帝元年至嘉永二年
10.巳酉千百四十四年
11.天平寶字六年壬寅迺廃帝四年至嘉永二年巳酉
12.千百六年
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両者は大変似ており、同一と言ってもよいと思います。違う点は、(逸)ではこの部分を書いたのが「安永八年」であったので、神亀元年から「千七十五年」、天平宝字からは「千三十七年」となっているのに対して、(鼇)でこの部分は「嘉永二年」に書かれたので神亀元年から「千百四十四年」、天平宝字からは「千百六年」となっています。その他、(逸)では「西行」となっている部分が(鼇)では「西行法師」となっています。また、(鼇)では頼朝の和歌を「いはてしのふ」と誤っています。

では、この文章はどこから採られているかというと、それは「奥州宮城郡市川村多賀城址壷碑図」からではないかと思います。

多賀城壷の碑図 安永四年版(1775) 天明元年版(1781)  文化七年版(1810)  別版W 別版T1 別版T2
早稲田大学図書館 俳諧番附その他摺物 山口県文書館 多賀城碑

次に天明元年版を見てみたいた思います。
 
奥州宮城郡市川村多賀城址壼碑圖
   石高六尺五分同幅三尺四寸


碑の図


        石内四方卦長四尺五分同幅二尺六寸三分
   右碑文行字數長短併字畫共ニ如碑ノ文字ノ不改書寫ス之
    
  日本風土記ニ曰陸奥國宮城郡坪碑ハ在鴻之池ニ [鴻之
  池ノ名今癈] 為故鎮守府ノ門碑恵美ノ朝獦立ツ之ヲ見雲真人
    清書也記異域本邦之行程ヲ令ム旅人ヲ不フ為迷ヲ途ニ
  新古今雑下
   みちのくのいハてしのふハえしらぬ書つくしてよ壷の碑 前右大将頼朝
     陸奥ハおくゆかしくそおもほゆる坪の碑そとのはまかせ 西行法師
    ○多賀城ノ事始ノ見續日本紀聖武帝天平九年夏四月ノ記
    ○神亀元年甲子廼チ聖武帝ノ元年至天明元年辛丑千七十七年
    ○天平寶字六年壬寅廼チ廢帝四年至天明元年辛丑千三十九年
     天明元年辛丑潤五月吉辰

注:レ点や一ニ点は省略しました
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この壷碑図について、山口県文書館に次のようにあります。
 
山口町の有力商人で町役人も務めた安部四郎右衛門は,1805(文化2) 年東北地方を旅行中にこの碑を見物したことを旅日記に記しており,その時に入手したと考えられます(安部家文書1414「奥州宮城郡市川村多賀城址壺碑図( 木版刷)」)。
引用 山口文書館 多賀城碑 

この案内図は天明元年(1781)発行で、安倍四郎右衛門が東北旅行をした文化2年(1805)とは24年の開きがあります。20年以上同じ版木で刷ったにしては文字が鮮明です。被せ彫りとしても発行年を改定しないのは不自然です。もしかすると旅行をする前に資料として入手していたのかもしれません。それにしても、山口の豪商が多賀城の碑を見物し、その案内図まで持っていたというのは驚くべきことです。

蕪村もこれに類似する「多賀城址壺碑図」を写したと考えられます。もしかすると、蕪村も東北行脚をした時に手に入れたのかもしれません。

(逸).奥の細道図巻 逸翁美術館蔵 豊書房 


ここで注目したいのが、碑の右側に書かれた。「石高六尺五分  幅三尺四寸」というサイズの表示です。これは多賀城址壼碑図 の「石高六尺五分同幅三尺四寸」と同じです。この碑のサイズは、その記録者により微妙な違いがあり、高さと幅の両方が一致している例は、管見では、(逸)と、安永版・天明版・などの「多賀城址壼碑図」及び東奥紀行です。これらはすべて同根の資料を用いていると考えられます。
この観点からも、蕪村は「多賀城址壼碑図」を写したと言えると思います。しかし、蕪村が写したのは、安永版でも天明版ではありません。天明版は(逸)の製作時期よりも後の版なので当然違うのですが、安永版もこのあと見ますが、年代表記の誤記の違いより蕪村が用いた可能性はほとんどありません。

それでは次に、この一連の文章の大もととなった資料を見てみたいと思います。

壼碑考(多賀古城壼碑考) 本郷弘斎(平信恕) 享保元年(1716年)
国会図書館 壼碑考


東奥州宮城郡市川邑多賀城址壼碑全圖
  自碑首至地上六尺五分石圍九尺六寸八分石基九尺三寸七分石體三稜

 図

至下四尺五分     濶二尺六寸四分

ページ 01b

日本風土記ニ曰。陸奥ノ國宮城ノ郡。坪ノ碑。有鴻ノ
之池[今廃ス]為故ノ鎮守ノ門碑。恵美ノ朝獦立之。
見雲ノ真人清書也。記異域本邦ノ之行程ヲ。令ム
旅人不為迷塗。

                    前右大将頼朝
新古今
みちのくのいはてしのふハえそしらぬ書つくしてよ壼の碑

ページ 02b
                     西行法師
陸奥ハおくゆかしくそおもほゆる坪の碑そとの濱風

ページ 03b
碑面考證
多賀城
 在市川ノ邑ノ山畔二。此ノ城ノ事始テ見續日本紀
 武帝天平九年夏四月ノ記二。
神亀元年甲子
 廼聖武帝元年。至亨保元年丙申ニ。千十ニ
 年。
天平寶字六年壬寅
 廼廢帝四年。至至亨保元年ニ。九百七十四年

注:レ点や一ニ点は省略しました。
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この本は、他に比べ 出版時期が早く、しかも内容も他よりも充実しています。更にこの本が親本である決定的な証拠があります。この本は亨保元年に書かれており、神亀元年から「1012年」、天平寶字六年から「974年」となっているのですが、実はこれが間違っているのです。
神亀元年は西暦724年、亨保元年は西暦1716年 なので、1716-724=992年となり、表記されている1012年とは20年ほどズレがあります。
また、天平寶字六年は西暦762年なので、1716-762=954年となり、これまた表記されている974年と20年のズレがあります。この点についてまとめてみると次のようになりました。

記号:
(壼).壼碑考(多賀古城壼碑考) 東奥州宮城郡市川邑多賀城址壼碑全圖 [壼(コン)]
(亨).亨保版 奥州仙臺宮城郡市川村多賀城址壼碑圖 [壼(コン)]
(安).安永版 奥州宮城郡市川村多賀城壺碑圖 [壺(ツボ)]
(逸).逸翁美術館所蔵 奥の細道図巻
(天).天明版 奥州宮城郡市川村多賀城址壼碑圖 [壼(コン)]
(東).東奥紀行
(文).文化七年版 奥州宮城郡市川邨多賀城壼碑圖 [壼(コン)]
(九).文化九年版 奥州宮城郡市川村多賀城址壺碑図 [壺(ツボ)] 
仙臺府下國分町 板木彫刻哥松林  参照サイト:一心 みずい版画 WEB画廊 No.18
(鼇).鼇頭奥之細道

多賀城址壼碑図 神亀元年
(724年)
天平寶字六年
(762年)
   碑の寸法
(壼).亨保元年 1716年
(亨).亨保14年 1729年
(安).安永四年 1775年 
(逸).安永八年 1779年
(天).天明元年 1781年 
(東).天明八年 1788年 
(文).文化七年 1810年 
(九).文化九年 1812年
(鼇).嘉永二年 1849年
1012年(992)
1025年(1005)
1071年(1051)
1075年(1055)
1077年(1057)
ーーーーーー
1107年(1086)
1109年(1088)
1144年(1125)
974年 (954)
987年 (967)
1015年(1013)
1037年(1017)
1039年(1019)
1048年(1026)
1051年(1048)
1053年(1050)
1106年(1087)
上記参照
高6尺5分/幅3尺4寸
    同
    同
    同
    同
ーーーーーーーー
高6尺5分/幅2尺4寸
高6尺5分/幅3尺4寸

( )内が正しい年数になります。こうして見てみると、安永版の1015年と文化版の1051年1053年は比較的正確で2年3年のズレなのですが、その他は凡そ20年のズレになっています。これは、最初の壼碑考で計算を間違えたため、それを基準としたものは皆20年ズレてしまったと考えるほかありません。
西暦を用いない時代では、こういう計算は干支を用いて行ったのだと思いますが、それでもかなり煩雑になるので、神亀や天平寶字の最初からの計算をせずに、亨保での間違いを踏襲してしまったのだと思います。1015年は、天平寶字から計算したものと思われます。2年くらいは誤差の範囲と言ってもいいかもしれません。先に言及しましたが、(逸)が(安)を参照していない根拠はここにあります。(逸)はどちらも20年のズレがあるので、(安)とは別な版を参照していることになります。そして(文)は(安)と同系統の版を基にしているということが言えると思います。
 (東)には、p12a 「自天平寶字六年至天明八年凡千四十八年」とあります。この本は、 長久保赤水によるものですが、標注を長久保中行 が行っています。そしてその標註の部分に、多賀城壼碑図からの借用がちりばめられています。しかし本文では南部壺碑説が唱えられているため、碑名も「多賀城修造碑圖」と変えられています。
  この他、壼碑考の影響を受けてない、奥州道中記には、「天平宝字六年より元禄七年まて九百三十三年に成」との記述があります。元禄七年は1694年なので、「1694-762=932」となり933年という記述とほぼ一致します。
 また、(鼇)の完成したのは安政五年(1858) ですから、この部分を書いた嘉永二年から9年も経っていたということになります。

 ところで、源頼朝と西行法師の和歌についてなのですが、壼碑考には他にも多くの和歌が掲載されているのに、どうしてこの二つの和歌が選ばれたのか? という疑問があります。特に西行の和歌は多くの和歌の中盤に載っているものです。これを蕪村が選んだというのならば、西行と奥の細道の関係から妥当な選択と言えると思うのですが、蕪村よりも先に、多賀城址壺碑図で西行の和歌が選ばれています。これはもしかすると、井原西鶴の「一目玉鉾」の影響が考えられるかもしれません。一目玉鉾では、壷碑の説明の最後にこの二つの和歌が掲載されているのです。一目玉鉾は元禄二年(1689)に出版され、享保三年(1718)にも再版されていますから、多賀城址壺碑図の編者も目にしている可能性はかなり高いと思います。また、一目玉鉾は芭蕉の壷碑の記述にも大きな影響を与えているように思えます。このことについては後ほど詳しく見てみたいと思います。

全体的に見て、(鼇)は(逸)と大変似ており、(逸)を参考にしたものと思われます。例えば、「聖武皇帝」という記述は、(逸)と(鼇)だけで他は「聖武帝」と書かれています。 [聖武皇帝という記述は、奥の細道の本文にも「聖武皇帝の御時に當れり」とあるので、(逸)はこれを踏まえて故意に変更したか、或いは、本文の記述につられて誤った可能性があります。参照 (京)17.20-21 ]
また、(逸)と(鼇)以外では[鴻之池ノ名今癈]というような記述がありますが、(逸)と(鼇)では省略されています。これらの点から、(鼇)は(逸)を写した可能性がかなり高いと思われます。しかし碑の図そのものに関しては、(逸)を参照せずに、他の資料を参照した可能性があります。(鼇)は一連の碑の解説文を文字通り「壺の碑の解説」として書いています。だからこそ、年数の数え方も、蕪村の年代を基準にせずに、自分が書いた嘉永二年を基準にしているのではないかと思います。蕪村が碑を芸術的な対象物としたのとは対照的に、奥の細道の資料としたのです。また、(鼇)は壼碑考も参考にしている形跡もみられます。

 「壷の碑」の「壷」の字について、壼碑考では、という漢字は用いていません。という漢字を用いています。壼碑考では最初に両者の違いについて言及しています。


壼碑考(多賀古城壼碑考)

名寄歌枕。作壼石文或作碑。風土記作
坪碑。壼。苦本切。音悃。爾雅宮中衖。
郭璞曰。衖。閣間道。詩大雅。其類維何。室家之
壼。又居也。俗作壼碑非也。壼。洪孤切。
音胡。酒器。坪。蒲明切。音平。地平處。

意訳
名寄・歌枕などでは、「壼石文」或るいは「碑」と書く。風土記では「坪碑」と書く。「壼」は、反切では、苦 本 で小韻は悃(コン)である。
中国の爾雅という辞典よると、壼は宮中の衖のことである。郭璞という人が言うには、衖は門から宮廷へと続く道のことである。詩経の大雅に「其の類(よき)こと維れ何ぞ。室家の壼(みち)である」とある。壼は居でもある。俗に と書くがそれは誤りである。「壺」は、反切では、洪 孤で小韻は胡(コ)である。 壺は酒の器のことである。「坪」は、反切では、蒲 明 小韻は平(ヘイ)である。地の平なところである。
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(鼇)の頭注には次のようにあります。

鼇頭奥之細道
壼碑
○碑ハ仙府ヨリ千賀の浦への往来の傍ラ市川村ニ有
多賀城の前栽の壷の内ニ在し故つほの碑と云
壼の字宮中の道也 壷音古也 酒甕也 混すへからす
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また、奥細道菅菰抄にも次のような記述があります。

奥細道菅菰抄
○按ルニ庭中ヲツボト云ハ本トノ字ナルベシ
 爾雅ニ宮中ノ衖之ヲ壼ト謂フト是ナリ瓶ノ属ヒノツボハ
 壺 ニテ音ヱ古(コ)ナリ然ニ今門内前栽ナドヲツボノ
内ト称ズルハト楷書ノ字形紛ラハ
 シキヨリシテ終井ニ其和訓マデヲ誤ルナリ

注:一ニ点は書き下しました
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改めて蕪村と鼇頭奥之細道の壺の碑の絵をみてみると、蕪村の壺の碑図は芸術性を主張した絵画であるのに対して、鼇頭奥之細道の壺の碑は、資料としての客観的事実をも伝えようとする図であるように見えます。両者を仲介した「多賀城址壼碑図」は、「壼碑考」を一般向けに簡略化したもので、観光客相手に大量に発行されていたのだと思います。そしてそれは山口の豪農にまで届く程の盛況を博していたということになります。

2020.05.22
2020.07.30
2020.12.27


与謝蕪村 奥の細道 上巻
与謝蕪村 奥の細道 下巻
12-13. 14. 15. 16-17. 18.


表紙 000 
1.序章 001 002 003.03
2.旅立 003.03 004 
3.草加 005 006.05
4.室の八島 006.06 007.05
5.仏五左衛門 007.06 008 009.01
6.日光 009.02 010 011 012.03
7.那須 012.04 013 014.06
8.黒羽 014.07 015 016.07
9.雲巌寺 016.08 017 018 19.07
10.殺生石・遊行柳 19.08 020 021.02
11.白河の関 021.03 022.06
12.須賀川 022.07 023 024 025.05
13.あさか山 025.06 026.06
14.しのぶの里 026.06 027.07
15.佐藤庄司が旧跡 027.08 028 029.07
16.飯塚 029.07 030 031.08
17.笠島 031.08 032 033.03
18.武隈 033.04 034 035.01
19.宮城野 035.02 036 037.04
20.壺の碑 037.05 038 039 040.03
21.末の松山 040.04 041 042.04
22.塩竈 042.04 043 044.04
23.松島 044.05 045 046 047 048 049.05
24.石巻 049.06 050 051.07
25.平泉 051.08 052
053 054 055.01
26.尿前の関 055.02 056 057 058 059.01
27.尾花沢 059.02 060.03
28.立石寺 060.04 061
29.最上川 062