宮城県には、朝鮮梅(臥龍梅)と呼ばれる梅が二箇所にあります。
一つは「古城の朝鮮ウメ」と呼ばれるもので、宮城刑務所の敷地内にあり国の天然記念物に指定されています。もう一つは「瑞巌寺の朝鮮ウメ」です。紅白2本の梅が瑞巌寺の庭に植えられおり、県の天然記念物に指定されています。そしてどちらの朝鮮梅も伊達政宗が文禄の役の際に朝鮮から持ち帰った梅であるとされています。
しかし、古城の朝鮮ウメは、白い一重の花であるのに対し、瑞巌寺の朝鮮ウメは、紅白ともに八重の花で、品種が違います。品種の違う両者とも、伊達政宗が朝鮮から持ち帰ったとは考えにくく、どちか一方は朝鮮由来ではない可能性が高いように思います。そこで、松島図誌などの記述をもとに、両者の関係を考えてみたいと思います。
1.瑞巌寺の朝鮮梅の品種「ザロン梅」について
現在、瑞巌寺の朝鮮梅の品種について書かれた資料は、皆無と言ってよいのではないかと思います。しかし松島図誌にはその品種について書かれています。
松島図誌 鼓缶子(桜田虎門) 述 東澤 圖 伊勢屋半右衛門 文政四年(1821)
国文研 16
○朝鮮梅 瑞岩寺の庭上に二株(にほん)の梅あり一ハ紅花(こうくわ)
一は白花なり其花重瓣(やへ)にして中にある蘃(しべ)の外に葩(はなびら)
の間ごとに又少しつゝの蘃あり香気(かほり)も殊にすぐれたり
実は三つ四つ又は五つ六つも同し蒂(ほそ)につきて尋常の
梅子(うめのミ)よりハ小し年によりて十餘も結ぶ事ありされ共
老樹(ふるき)なる故にや年経(ふ)るに従て実を結ぶ事少くなると
いへり 貞山公朝鮮にわたり給ひし時種を得て爰に
栽(うゑ)させ給ふと云 秘傅花鏡といふ書などにある品字梅(ざろんうめ) 鴛
鴦梅(はなざろん)などいふ種類なるべし品字梅は日本にもありて
其花其香其実ミな奇なる故に 後水尾帝(ごミのをのミかど)花香実
といふ號を給ふとなり
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八つ房の梅
注:貞山公は伊達政宗のこと。
筆者の鼓缶子(桜田虎門)は、儒者であるだけでなく、本草学にも造詣が深かったようで、朝鮮梅の特徴を詳しく調べ列記し、「秘傅花鏡」の記述と照合し「品字梅(ざろんうめ) 鴛鴦梅(はなざろん)などいふ種類なるべし」と品種を特定しています。
秘傅花鏡 三巻 陳 淏子 訂輯 平賀源内 校訂 安永二年(1773)
東大駒場図書館 134
鴛鴦梅 重葉數層紅艶輕盈一蔕雙實
品字梅 一花結2三實ヲ1伹其實小不レ甚レ喋二
しかし現在この梅の種類について言及されている資料は皆無と言っていいと思います。それは次の塩松勝譜の影響によるものではないかと思います。
塩松勝譜 巻之三 舟山万年(光)編・佐沢広胖校訂 文政五年成立(1822)
仙臺叢書別冊四巻 1907 活字翻刻
朝鮮梅
瑞巌寺殿前ニ在り。紅白二株アリ。貞山公曾テ征韓
ノ役ニ得ル所ノ種ニシテ。茲ニ栽ヱシムト云フ。老
幹鱗皴痩枝樛曲。其花千葉一芬五六實。若クハ八九
實ヲ結フ初メ花開ク時花心中ニ數小蕋ヲ簇發シ。
而シテ香氣尤モ烈ナリ。范石湖梅譜及陳扶搖秘傅
花鏡中ニ未タ曾テ載セサル所ナリ。實ニ奇品ト稱
スヘシ。
上記のように塩松勝譜では、「梅譜」にも「秘傅花鏡」にも載ってない奇品である。としています。しかし、梅譜にも秘傅花鏡にも、ザロン梅のことは載っているわけですから、ザロン梅ではない理由を述べずに、本に載ってないと否定するのはフェアではないと思います。
梅菊兩譜 梅譜 范成大 著 阿部喜任 校 天保元(1830)
東大総合図書館 11
鴛鴦梅多葉紅梅也花輕盈重葉數層大凡雙果必並
蒂惟此一蔕而結雙梅亦尤物
この塩松勝譜の否定の影響から、松島勝譜では次のようになります。
松島勝譜
校訂 大槻復軒 編纂 作並鳳泉
筆者 原田鼎洲 畫 瀧和亭 荒木寛畒 川端玉章
出版:明治21年7月28日(1888)
宮城県図書館 31 32
○朝鮮梅 又八房の梅といふ政宗卿征韓の役の歸路
に齎したまひし種なり瑞巌寺の庭上にあり一は紅
にて一ハ白なりその花重瓣にして中央なる蘃の外に葩の
間ごとに又少しづゝの蘂ありて香氣も殊にすぐれたり實
ハ三ツ四ツ五ツ六ツも同じ蘂につきて生ず尋常の梅子
よりハ小し老幹鱗皴痩枝樛曲にして年経るに從ひて
實を結ぶこと少なくなるといへり世にある品字梅鴛鴦
梅の種類にあるべしといふ人あれども此花と全く同じからず
范石湖が梅譜又陳扶揺が秘傅花鏡にも載せざるもの
にて實に奇種といふべし當時卿の詩あり曰く絶海行軍
歸レ國日。鐵衣袖裏裹2芳芽1。風流千古餘2清操1。幾歳閑
看異域花。この真蹟舊熊本細川侯の家に蔵せりといふ
又芳芽を裹ミたるものハ竹にてあミたる籠にて維新の
初めまで舊幕臣松平友三郎氏珍籠せりといへど今
ハ如何なりしか
前半の朝鮮梅の説明は松島図誌から採られていますが、「塩松勝譜」を踏襲してザロン梅については否定しています。これらの否定は、朝鮮梅が日本にもあるザロン梅と同じ品種であるとされているのが問題だったのだと思います。伊達政宗が朝鮮から持ち帰った梅なのだから、唯一無二の種でなければならないと考えたのかもしれません。
また、松島勝譜では、松島図誌と塩松勝譜が組み合わさっているため、「梅譜」や「秘傅花鏡」にはザロン梅が載っていないようにも読めてしまします。このことから更に次のように変化します。
松島案内 今泉寅四郎 明治卅八年八月十七日発行(1905年)
国会図書館 p32
朝鮮梅 俗に八房の梅と云ふ、瑞巌寺本堂の前なる二株の梅樹(うめ)是
れなり一は紅梅にて一は白花(しろ)なり其花重瓣(やへ)にして中にある蘃(すべ)の外
に葩の間ごとに又少しつゝの蘃あり香氣(にほひ)も殊に勝れたり實は三
つ又は五つ六つも同じ蒂(もそ)につきて尋常の梅實よりは稍小なり老幹槎
枒屈曲して甚だ雅致あり、この花范石湖の梅譜又陳扶搖の秘傅花鏡中
にも載せざれど恐くは品字梅(ひんじばい)鴛鴦梅(えんおうばい)なとの變種ならんか品字梅は日
本にもありて 後水尾天皇『花香美(はながみ)』の名稱を給へり、實に貞山公
朝鮮の役携ひ帰られたる者にて當時公の詩に曰く「絶海行軍歸國日。
鐵衣袖裏裹芳芽。風流千古餘清操。幾歳閑看異域花。」
上記の松島案内は、松島図誌と松島勝譜の両方を参照しているものと思われますが、松島勝譜に引っ張られ、梅譜や秘傅花鏡にはザロン梅について書かれていないとしています。そして、「品字梅・鴛鴦梅などの変種ならんか」と松島図誌の記述を微妙に変えています。
このような経過をたどるうちに、ザロン梅の記述は削ぎ落とされ、瑞巌寺の朝鮮梅の品種について言及されることはなくなってしまったようです。
2020年12月5日