今回はこれらの「壷碑」について詳しく見てみたいと思います。
まず、実際の拓本を見てみたいと思います。
Wikipedia (拓) 多賀城碑文・安井息軒『読書余滴』より
去京一千五百里
多賀城 去蝦夷国界一百廾里
去常陸国界四百十ニ里
去下野国界二百七十四里
去靺鞨国界三千里
西 此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎮守将
軍從四位上勲四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅参議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎮守
将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日
-----------------------------------
次に芭蕉の壷碑図関連の5本を見てみます。
(眺) 松島眺望集 大淀三千風 天和2年(1682年)北海道大学図書館
壷碑 良玉 おもひこそ千島のおくをへだつともなどかよハさぬつぼのいしふミ 法橋顕昭
此処塩釜仙臺の中間市川村といふ國司屋敷の跡にぬのめ
地の赤瓦あり都のつとにし侍る硯屏などに用る奇也 [硯屏(けんびょう)]
碑之圖
高六尺三寸
横三尺一寸
厚一尺
去京一千五百里
去蝦夷国界一百廿里
多賀城 去常陸国界四百十二里
去下野国界二百七十四里
去靺鞨国界三千里
西 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守將
軍從四位上勲四等大野朝臣東人之処里 [処里]
也天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎮守
將軍藤原恵美朝臣朝修造也
天平寶字六年十二月一日
いしぶみや青苔一氣つぼ世界 阿波 直忠
つほのいしふみ和久一流の泉也 山カタ 心素
是ハ藤原ノ恵美 宝字六年ノ曛 河シマ 大益
検地渉南北ニ踏殫壷ノ石文
押へた蔦つぼのいしふミ 韵ふたぎ みち風
-----------------------------------
(玉) 一目玉鉾 井原西鶴 元禄二年 (1689年) 早稲田大学図書館
○壷石文
此石高サ六尺横三尺厚一尺五寸面向 [面向(めんかう)][う]判読難
に立抑多賀城ハ神亀元年甲
子按察使鎮守府将軍大野朝 [鎮守府の将軍]
臣東人所筑也其後天平宝字 [築く所也]
六年十二月東海道節度使兼
鎮守府将軍藤原恵美朝臣此城 [鎮守府の将軍] [藤原の恵美朝臣]
内に立置て此碑といへり
田村将軍鉾を持て此碑のうちに
爰を日本の中央のよし傳へり又
壷といふ所の名にハあらず前栽に
立られしゆへなり
陸奥のいはて忍ふをゑそしらぬ書尽てよ壷の石文
みちのくの奥ゆかしくもおもはゆるつほの石文外のはま風
-----------------------------------
(曽) 曽良旅日記 天理図書館善本叢書 和書之部 第10巻
去京一千五百里
去蝦国界一百廿里
多賀城 去常陸国界四百十ニ里
去下野国界弐百七十四里
去靺鞨国界三千里
西 此域神亀元年歳次甲子按
察使兼鎮守府將軍従四位
上勲四等大野朝臣東人之所○
○也天平寶字六年歳次
壬寅参議東海東山節度
使従四位上仁部省卿兼按察
使鎮守府將軍藤原恵美
朝臣朝修造也
天平宝字六年十二月一日
石ノ高地ヨリ上六尺五寸餘幅廣所
三尺五六寸セハキ所三尺
-----------------------------------
(蕉) 芭蕉の真蹟の「壷碑写し」 おくのほそ道図譜 朝日新聞社編
去 京 一千五里
多賀城 去 蝦夷国界一百二十里
去 常陸国界四百十ニ里
去 下野国界二百七十四里
去 靺鞨国界三千里
西 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守苻将
軍従四位上勲四等大野朝臣東人所呈←此字不明
也天平寶字六年歳次壬寅参議東海東山
節度使従四位上仁部省卿兼按察使
鎮守苻将軍藤原恵美朝臣修造也
天平寶字六年十二月一日
右壷碑仙臺松嶋之間市川村ニアリ
所之者ハ竪石ト云々
奥州行脚ノ時元禄二年五月八日
穿碑苔写之高七尺横四尺厚
一尺或一尺餘 芭蕉
-----------------------------------
(奥) 芭蕉自筆 奥の細道 岩波書店
壷碑 市川村多賀城ニ有
つほの石ふみハ高サ六尺餘横三尺計歟苔を
穿て文字幽也四維国界之数里を印ス此城
神亀元年按察使鎮守苻将軍大野
朝臣東人之所里也天平宝字六年
参議東海東山節度使同将軍 恵
美朝臣修造而十二月一日と有
聖武皇帝の御時にあたれりむかし
-----------------------------------
これら6種の「此城神亀元年・・・」以後の部分を比較したいと思います。
拓本を基に、・脱字 ・誤字 で表記します。
(拓) Wikipedia 多賀城碑文・安井息軒『読書余滴』より
(眺) 松島眺望集 大淀三千風 天和2年(1682年)
(玉) 一目玉鉾 井原西鶴 元禄二年 (1689年)
(日) 曽良旅日記 天理図書館善本叢書 和書之部 第10巻
(蕉) 壷碑写し おくのほそ道図譜 朝日新聞社編
(奥) 芭蕉自筆 奥の細道 岩波書店
1.
(拓).此城・・・神龜元年歳次甲子按察使兼鎮守・将
(眺).此城・・・神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守・將
(玉).抑多賀城ハ神亀元年・・甲子按察使・鎮守府将
(日).此域・・・神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守府將
(蕉).此城・・・神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守苻将
(奥).此城・・・神亀元年・・・・按察使・鎮守苻将
2.
(拓).軍從四位上勲四等大野朝臣東人之所置 [所置也(置く所也)]
(眺).軍從四位上勲四等大野朝臣東人之処里
(玉).軍・・・・・・・大野朝臣東人・所筑 [所筑也(築く所也)]
(日).軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所○○
(蕉).軍従四位上勲四等大野朝臣東人・所呈←此字不明
(奥).軍・・・・・・・大野朝臣東人之所里
3.
(拓).也・・天平寶字六年・・・歳次壬寅参議東海東山
(眺).也・・天平宝字六年・・・歳次壬寅参議東海東山
(玉).也其後天平宝字六年十二月・・・・・・東海道・
(日).也・・天平寶字六年・・・歳次壬寅参議東海東山
(蕉).也・・天平寶字六年・・・歳次壬寅参議東海東山
(奥).也・・天平宝字六年・・・・・・・参議東海東山
4.
(拓).節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎮守・
(眺).節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎮守・
(玉).節度使・・・・・・・・兼・・・鎮守府
(日).節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守府
(蕉).節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守苻
(奥).節度使・・・・・・・・同・・・・・・
5.
(拓).将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也 [犭葛]
(眺).將軍藤原恵美朝臣朝𤢥修造也 [犭萬]
(玉).将軍藤原恵美朝臣・・・・・
(日).將軍藤原恵美朝臣朝修造也
(蕉).将軍藤原恵美朝臣・・ 修造也
(奥).将軍・・恵美朝臣・𤢥修造而 [犭萬]
6.
(拓).天平寶字六年十二月一日
(眺).天平寶字六年十二月一日
(玉).・・・・・・・・・・・此城内に立置て此碑といへり
(日).天平宝字六年十二月一日
(蕉).天平寶字六年十二月一日
(奥).・・・・・・十二月一日と有聖武皇帝の御時にあたれり
(奥)は(玉)にかなり近いようです。それは両者以外の(拓)(眺)(日)(蕉)が、碑文をそのまま正確に写そうとしたものであるのに対し、(玉)(奥)は碑文の内容を要約して説明したものであるということに関係があるように思います。そこでまず、一目玉鉾について詳しく見てみたいと思います。
○壷石文(つほのいしふみ)
此石、高サ六尺、横三尺、厚ミ一尺五寸、面向(めんかう)に立。抑々多賀城は・・・大野朝臣東人の築く所也。其後、天平宝字六年十二月・・・・藤原恵美朝臣、此城内に立置て此碑といへり。
この文面は、「壷の石文」の概要の説明という体裁で書かれています。「抑々多賀城は・・・」というような導入は、作者である井原西鶴が、多賀城についての薀蓄をこれから語り始める。ということを示すものであり、「・・・大野朝臣東人の築く所也。」というのは、石文の文面の写しではなく、西鶴自身の説明であると読めてしまいます。
また、「其後、天平宝字六年十二月・・・藤原恵美朝臣、此城内に立置て此碑といへり。」というのも、「何時? 誰が? 石文を立てたか?」を西鶴が説明しているという体裁になっています。これまでの文章は、実際は石文の要約が書かれているのですが、読者は西鶴による石文の説明と考えるため、石文に何が書かれているのかは、不明のままになっています。しかし、西鶴はそれを狙っていたのかもしれません。それは次の文章でわかります。
田村将軍、鉾を持て此碑のうちに爰を日本の中央のよし傳へり。又、壷といふ所の名にはあらず、前栽に立られしゆへなり。本来、壷石文は、坂上田村麻呂が「日本の中央」と書いた大きな石のことですから、当然この石文には「日本の中央」と書かれているはずなのです。そして西鶴はそう書いているわけです。そして、「壷といふ所の名にはあらず、前栽に立られしゆへなり。」と、多賀城にあることを肯定しています。
この観点から奥の細道をみてみると、奥の細道も「壷碑(つぼのいしぶみ)の説明」か「壷碑の写し」か? 曖昧であることに気づきます。「・・・苔を穿て文字幽也。四維国界之数里を印ス。」この部分は芭蕉自身の説明ですが、「此城・・・大野朝臣東人之所里也。」は壷碑の写しという解釈が一般的です。しかしそれは、翻刻者や解説者が多賀城碑についての知識を利用して区別しているに過ぎません。そういった知識がなければ、特に改行されているわけでもないので、ここからは壷碑の写しである。というような区別はつきません。
また、「節度使同将軍」の「同」は壷碑にはない文字ですが、一般にこれは誤字とはされていません。それは、「鎮守苻将軍を兼ねている。」という意味で使うために芭蕉は壷碑にない文字を故意に用いたと解釈できるからなのだと思います。ところが、「恵美朝臣修造而十二月一日と有」は「也」の誤りとされています。しかし、(蕉)では、「修造也」と誤っていないわけですから、(奥)では文字を間違えたとするよりも、本来「天平宝字六年十二月一日」であるものを「十二月一日」と省略して、先にある「天平宝字六年」と繋がっているということを無理なく示すために、「也」で終わらせずに、「而(して)」と繋いだと見るのが自然であるように思えます。注1 (玉)では「其後天平宝字六年十二月」と「十二月」を先に出して碑文の日付を省略したのに対応します。
しかし奥の細道と一目玉鉾には明らかな違いがあります。それは、奥の細道では、「四維国界之数里を印ス」とこの碑の本来の目的が説明されているのに対して、一目玉鉾ではこの肝心の内容が欠落しています。そして一目玉鉾では「田村将軍の日本の中央」について書かれていますが、奥の細道にはこの説明はありません。芭蕉は実際にこの碑を見ているわけですから、「日本の中央」と書かれていないのは知ってたのです。
以上、奥の細道と一目玉鉾との関係性を見てきましたが、次の二個所は松島眺望集の関連がみられます。
2.
(拓)「所置」
(玉)「所筑」
(眺)「処里」
(奥)「所里」
5.
(拓)「朝獦」 [犭葛]
(玉)「・・」
(眺)「朝𤢥」 [犭萬]
(奥)「・𤢥」 [犭萬]
おそらく芭蕉は、一目玉鉾を引用しながら、多賀城碑の正確な情報を得るために、松島眺望集を参照したのではないか思います。
次に、 自筆の奥の細道の貼紙の下に書かれていた訂正前の壷碑について見てみたいと思います。
芭蕉自筆奥の細道 本文篇 p87
上野 洋三 櫻井 武次郎 岩波書店
市川村多賀の城は往昔境守の
舘舎也つほの石碑このところに
あり凡竪七尺あまり横五尺
計にみゆ苔を穿て文字か
すかなり四維国界の道の数
里をきさむ造栄[営]鎮守苻
将軍陸奥守朝狩と有おなしく
安察使何某修造を加えて神亀
宝字六年霜月と印ス聖武
皇帝の御時にあたれり
この貼紙される前に書かれた短い文章には多くの問題が含まれています。まず、碑の大きさですが、「竪七尺あまり・横五尺計」とありますが、訂正後は「高サ六尺餘・横三尺計歟」となります。これは一目玉鉾と同じサイズですから、一目玉鉾をもとに訂正したことを示唆します。
次に、「 造栄[営]鎮守苻将軍陸奥守朝狩と有」とありますが、「鎮守府将軍」は松島眺望集などにも見られますが、「陸奥守朝狩」は他には見当たりません。「朝狩」は「藤原朝臣朝獦」のことで、続日本紀には「朝狩」「朝猟」「朝獦」の三つの表記が見られます。また、朝猟が「陸奥守」に任じられたという記述も続日本紀にあります。注2
碑文の「朝獦」という文字が判読されるのは、仙台藩の佐久間洞巌が元禄十二年(1699)に正確な拓本を取ってからであり、一般に知られるようになったのは、この拓本の成果をもとに、本郷弘斎が享保元年(1716)に「壼碑考(多賀古城壼碑考)」を出版してからのことではないかと思われます。つまり芭蕉は、碑文からではなく、続日本紀などの資料から「朝狩」と判読していたということになります。続日本紀は明暦三年(1657)に版本が出版されていますので、芭蕉が目にした可能性はあります。とすると、芭蕉は「藤原恵美朝臣朝𤢥」を「藤原恵美朝臣朝獦」であると知っていたということになります。ところが、訂正後の奥の細道では、「藤原恵美朝臣・𤢥」と「朝」が抜けています。これは不注意による脱字とは思えません。不注意による脱字ならばその後の「曽良本」などで訂正できたはずです。もしかすると、芭蕉は「朝」の抜けた碑文も参照したのかもしれません。例えば、奥州道中記では「藤原恵美朝臣獏修造也」とされています。また、続俗説弁では「藤原恵美朝臣掲修造也(藤原恵美朝臣修造掲(カクル)也)」とされています。
ここまでの事柄については不審はあっても、それなりに筋が通っているのですが、しかし多賀城を「造営」したのが朝狩というのは明らかに誤りですし、「おなしく安察使何某修造を加えて神亀宝字六年霜月と印ス」というのも誤りです。「神亀宝字」にいたっては年号そのものが存在しません。正しくは、「造営」は大野朝臣東人であり、「何某」は「藤原恵朝臣朝狩」であり、年号は「天平宝字六年臘月(12月)」ということになります。
一体これをどうみればよいのでしょうか? 芭蕉の記憶の混乱による誤りとする見方もできるかもしれませんが、しかしそうすると「聖武皇帝の御時にあたれり」という文が問題になります。これは神亀の天皇が誰かを知っていなければ書けません。おそらくこれも、続日本紀を調べて書いたのではないかと思われます。
もしかすると芭蕉はこの石碑を調べるにつれ、これがいわゆる壷碑ではないことを確信したのかもしれません。壷碑は坂上田村麻呂が弓の筈で「日本の中央」と書いた大石であるはずなのに、この碑に書かれていたのは、「四維国界の道の数里」であり、作ったのも藤原恵美朝臣朝狩で年代も違っています。そこで芭蕉は、故意に文の前後を入れ替えたり、年号を折衷したりして、事実をぼかそうとしたのかもしれません。芭蕉は雲巌寺を雲岸寺としたり、こういった遊びを他でもかなり行っています。しかし、「石碑の裏には日本の中央と書かれている。」というようなあからさまな嘘は書かなかったのは、芭蕉の見識といえるかもしれません。
それにしても、貼紙前の文章は腑に落ちない点が多すぎます。これらは「壼碑考」と同等の知識がなければ(誤りも含めて)書けないように思えます。芭蕉はそのような知識をどこから仕入れたのでしょうか? 仮に「壼碑考」以後に書かれたとするならば、芭蕉直筆本は偽書ということになってしまいます。
多賀城碑と壷碑と日本総国風土記について 参照
注1:「修造而」を「修造ニ而(して)」とするのは、奥細道菅菰抄 参照
注2:
続日本紀の朝猟の「陸奥守」の記述
続日本紀巻第二十 起天平宝字元年正月盡二年七月
○甲寅 (天平宝字元年七月十八日)
從五位下藤原ノ朝臣朝猟ヲ為ス陸奥ノ守ト
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563122/45
※この時は、「藤原朝臣朝猟」という名でその後に「藤原恵美朝臣朝猟」となります。
続日本紀巻第廿一 起天平宝字二年八月盡十二月
甲子 (天平宝字元年閏八月十九日)
朝猟の父、藤原朝臣仲麻呂は「恵美」の二字を加え、藤原恵美朝臣押勝となります。これにより一家は「恵美朝臣」と名乗ります。
続日本紀の「陸奥國ノ按察使兼鎮守將軍」「朝獦ヲ特ニ授從四位下ヲ」の記述。碑には「使從四位上」とあります。
続日本紀巻第廿二 起天平寶字三年正月盡四年六月
○丙寅 (天平宝字四年一月四日)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563123/44
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563123/45
続日本紀の「藤原ノ恵美ノ朝臣朝狩ヲ為東海道ノ節度使ト」の記述
続日本紀巻第廿三 起天平寶字四年七月盡五年十二月
○丁酉 (天平宝字五年十一月十七日)
続日本紀での「朝狩」の表記
続日本紀巻第廿二 起天平宝字三年正月盡四年六月
○六月庚戌 (天平宝字三年六月十六日)
藤原ノ恵美ノ朝臣朝狩ニハ正五位下
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563123/32
-----------------------------------
追記
井原西鶴の一目玉鉾は黒川道祐の遠碧軒記を参考にしたようです。次にこれらの系譜を見てみたいと思います。
日本随筆大成第一期 10 関根正直・和田英松・田辺勝哉監修 吉川弘文館 p147
遠碧軒記 下之三
著:黒川道祐 元和9年(1623)-元禄4年(1691) 編:難波宗建 宝暦6年(1756)
○奥州多賀城の古跡に壷の碑今もあり。石の高さ六尺、横三尺、厚さ一尺半、西向にたてたり。此の多賀城は神亀元年甲子按察使兼鎮守府將軍大野朝臣東人之所築也。其後天平宝字六年十二月、東海道節度使鎮守府将軍藤原朝臣恵美於此城内立此碑云々。田村利仁将軍弓の鉾を以て、此の碑の裏に爰を日本の中央のよしかゝれしと申伝ふれど、今は慥かならず。その上爰を中央とも云不審。又壷と云処を名のやうに伝ふるも不詳。爰にて人々尋侍しに、只城内の壷前栽に立られし石なりと心得べしと云て、近き義にて面白し。
国花万葉記 菊本賀保 元禄10(1697) 巻11 54a 54b 早稲田大学図書館
壷の石碑 當國の名碑也此石高サ六尺幅三 [名碑(メイヒ)]
尺厚一尺五寸有ル碑石也昔此所多賀城立 [多賀(タガノ)城]
神龜元年甲子按察使鎮守府将軍大 [按察使(アセツシ)鎮守府(チンシユフノ)将軍]
野朝臣東人の築く処也其後天平宝
字六年十二月東海道節度使兼鎮
守府将軍藤原の恵美朝臣此城に此
碑石を立置給へり城門ハ朽れ共此碑 [朽(クチ)]
残りて後来にとゞまる往古の形見盡
せざる名残なり又其後田村将軍鎮守
府として鉾を持て此碑の面に爰を日 [持]判読難
本中央と書付侍へり昔城中の前栽
壷の内に立し碑なる故壷の石碑とは
云傳ふとかや ▲大僧正慈圓頼朝公へ思ふ程
の事文にてハ申つくしがたしと申つかハされける
返事に頼朝
陸奥のいハでしのぶハえぞしらぬ書つくしてよ壷の石ふミ
和漢三才圖會 寺島良安 正德二年(1712年)
巻第六十五図会 地部 陸奥國 国会図書館
壷石碑 多賀ニ在リ
天-平寶字六-年藤原ノ恵-美ノ朝-臣立ル所ナリ高サ六-尺 幅三-尺厚サ
尺-半
昔シ此ノ處ニ城有リ多-賀ノ城ト名ク大野東-人之ヲ築ク後ニ恵-美ノ朝 [東人(アツマント)]
臣其舊-跡ヲ慕石-碑ヲ建其銘于左ニ記ス又曰ク田村將-軍
鉾ヲ用テ日-本中央ノ四-字ヲ書ク 云-云
△按田-村-丸東夷ヲ征-伐ノ時
来テ碑乎見ルカ蓋シ蝦-夷カ島モ日本ノ屬國ヲ以 此處中央為ルモ亦宜哉
去ル事京ヲ 一-千五-百里
去ル事蝦-夷國界ヲ 一百二十里
多賀城 去ル事常陸ノ國界ヲ 四-百十二里
去ル事下野ノ國界ヲ 二-百七十四里
去ル事靺-鞨ノ國界ヲ 三千里
西 此城ハ神龜元年歳ノ次甲子按察使兼鎮守將- [次(ヤトリ)] [按察使(アゼシ)]
軍從-四-位-上勲-四等大野朝臣東人ノ所置 [所置][置所ナリ]
也天-平寶字六-年歳ノ次リ壬-寅参-議東海東山
節度-使從-四-位-上仁部少-卿兼按-察-使鎮守-
將-軍藤原恵-美朝-臣朝-亻葛修-造也
天平宝字六年十二月一日
陸奥のいはでしのぶハえぞしらぬ書つくしてよつほの石ふミ 頼朝
東国名勝志 作:鳥飼酔雅 画:月岡丹下 宝暦十二年(1762)
国会図書館 巻1. 10b
壷の石碑
みちのくの おくゆかしくも
おもほゆる つぼのいしぶミ
外の はま風
當國の名碑也此石高サ六尺
幅三尺厚サ一尺五寸也
神亀元年大野朝臣東人の
築所也其後田村丸又改爰を
日本の中央として碑の表に諸方への
道法をしるせり [道法(みちのり)]
(遠) 遠碧軒記 下之三 著:黒川道祐 編:難波宗建
(玉) 一目玉鉾 井原西鶴 元禄二年 (1689年)
(国) 国花万葉記 菊本賀保 元禄10(1697) 巻11 54a 54b
(和) 和漢三才圖會 寺島良安 正德二年(1712年) 巻第六十五図会 地部 陸奥國
(勝) 東国名勝志 作:鳥飼酔雅 画:月岡丹下 宝暦十二年(1762) 巻1. 10b
(奥) 芭蕉自筆 奥の細道 岩波書店
1.
(遠).○奥州多賀城の古跡に壷の碑今もあり
(玉).○壷石文
(国).・壷の石碑 當國の名碑也
(和).・壷石碑 多賀ニ在リ 天平寶字六年藤原ノ恵-美ノ朝臣立ル所ナリ
(勝).・壷の石碑 當國の名碑也
(奥).・壷碑 市川村多賀城ニ有
2.
(遠).・・・・・石の高さ六尺・横三尺・・厚さ一尺半・西向にたてたり
(玉).・・・・此石・高サ六尺・横三尺・・厚・一尺五寸面向に立・・・
(国).・・・・此石・高サ六尺・幅三尺・・厚・一尺五寸有ル碑石也
(和).・・・・・・・高サ六尺・幅三尺・・厚サ・尺半・
(勝).・・・・此石・高サ六尺・幅三尺・・厚サ一尺五寸也
(奥).つほの石ふみハ高サ六尺餘横三尺計歟・・・・・・
3.
(遠).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(玉).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(国).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(和).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(奥).苔を穿て文字幽也四維国界之数里を印ス此城
4.
(遠).・・此の・・多賀城は神亀元年甲子按察使兼鎮守府將軍大野朝臣東人之所築也
(玉).・・抑・・・多賀城ハ神亀元年甲子按察使・鎮守府将軍大野朝臣東人・所筑也
(国).昔・此・所・多賀城立神龜元年甲子按察使・鎮守府将軍大野朝臣東人の築く処也
(和).昔シ此ノ處ニ城有リ多賀ノ城ト名ク・・・・・・・・・大野・・東人之ヲ築ク
(勝).・・・・・・・・・・神亀元年・・・・・・・・・・・大野朝臣東人の築所也
(奥).・・此・・・・・城・神亀元年・・按察使・鎮守苻将軍大野朝臣東人之所里也
5.
(遠).其後天平宝字六年十二月・・東海道・節度使・鎮守府将軍藤原・朝臣・恵美
(玉).其後天平宝字六年十二月・・東海道・節度使兼鎮守府将軍藤原・恵美・朝臣
(国).其後天平宝字六年十二月・・東海道・節度使兼鎮守府将軍藤原の恵美・朝臣
(和).後ニ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・恵美ノ朝臣
(勝).其後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田村丸・・
(奥).・・天平宝字六年・・・参議東海東山節度使同・・・将軍・・・恵美・朝臣
6.
(遠).於此城内・立此碑云々
(玉).・此城内に立置て此碑といへり
(国).・此城・に此碑石を立置給へり 城門ハ朽れ共此碑残りて後来にとゞまる往古の形見盡せざる名残なり
(和).其舊跡ヲ慕石碑ヲ建其銘于左ニ記ス
(勝).又改
(奥).修造而十二月一日と有聖武皇帝の御時にあたれり
7.
(遠).・・・田村利仁将軍・・・・・・弓の鉾を以て
(玉).・・・田村・・将軍・・・・・・・・鉾を持て
(国).又其後田村・・将軍鎮守府として・・鉾を持て
(和).又曰ク田村・・將軍・・・・・・・・鉾ヲ用テ
(勝).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(奥).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
8.
(遠).此の碑の裏・に爰を日本の中央のよしかゝれしと申伝ふれど
(玉).此・碑のうちに爰を日本の中央のよし傳へり
(国).此・碑の面・に爰を日本・中央と書付侍へり
(和).・・・・・・・・・日本・中央ノ四字ヲ書ク云云
(勝).・・・・・・・爰を日本の中央として碑表に諸方への道法をしるせり
(奥).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
9.
(遠).今は慥かならずその上爰を中央とも云不審又壷と云処を名のやうに伝ふるも不詳
(玉).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・又壷といふ所の名にハあらず
(国).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(和).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(勝).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(奥).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
10.
(遠).爰にて人々尋侍しに只城内の壷前栽に立られし石なりと心得べしと云て近き義にて面白し
(玉).・・・・・・・・・・・・・・前栽に立れしゆへなり
(国).昔城中の・・・・・・・・・・前栽壷の内に立し碑なる故壷の石碑とは云傳ふとかや
(和).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(勝).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(奥).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2行の(遠)では「西向」と表記されているものが、(玉)では「面向」と表記されています。(玉)は「西」を「面」と誤読した可能性が考えられます。
9行以下(遠)では、田村将軍の日本中央について、かなり懐疑的に書かれていますが、(玉)では、(遠)の懐疑的な部分を取り除き、事実として書き直しています。そして(奥)では7行以下の田村将軍の部分には触れられていません。
(勝)は、書き出しや碑の寸法の一致から、(国)などを参考にしてるのは間違いないと思います。しかし、(勝)が出版されたのは、宝暦12年(1762)と時代が下り、この頃には「多賀城址壼碑図」なども大量に刷られています。そのため、多賀城碑に田村麻呂が書いた「日本中央」の文字などないことは広く知れ渡っていたのだと思います。そこで考え出されたのが次のようなことだと思います。
(玉)の「爰を日本の中央のよし傳へり」というような文言を、「日本の中央のよしであるから、日本中央の四字が書かれていたわけではなく、日本の中央を示す事柄が書かれていたのだ」と解釈し「爰を日本の中央として碑の表に諸方への道法(みちのり)をしるせり」としたということになります。つまり、多賀城から諸国への距離が示されているということは、多賀城が日本の中央であることを示している。という論理になっているわけです。多賀城碑と田村麻呂の伝説の整合性を取るためのギリギリの表現と言えると思います。しかし、恵美朝臣が田村丸に変えられてしまっているのは、これはどうしようもなことです。もともと別々のものなので、どこかで破綻が起きるのはしかたがないことだと、割り切ったのかもしれません。
(勝)の例からすると、(奥)の「四維国界之数里を印ス」は大変練られた表現と言えます。多賀城を中心として四方の国境までの距離を示しているというわけですから、多賀城が日本の中央という事柄もここには含まれていることになります。
2020.07.17
2020.08.18 更新