教育用の書物に往来物というジャンルがあります。往来とはもともとは、往復書簡のことを意味したようですが、江戸時代頃になると、教育用の書物全般を指すようになったようです。
その往来物の中に、「松島往来」という本があります。全文を下に載せました。一読すればわかるように、これは、松尾芭蕉の奥の細道の日光から象潟までの部分の原文を切り繋いで要約したものです。ただ、文末はいわゆる「候文」に変えられています。
松島往来は、天明八年(1788)に出版されました。これは奥の細道の寛政版が出る少し前で、明和版が出回っていた時代に当たります。先に、蕪村の奥の細道と明和版との関係を見ましたが、明和版には、元禄版にはない特徴があります。それは「那須与一の場面」の「ハ」の脱落です。(参照 与謝蕪村 奥の細道画巻の底本について Part.1)
元禄版08a.08-08b.01
与市扇の的を射し時別してハ 我国氏神正八まんとちかひしも
元禄A・B・C 元禄K 元禄R 元禄SI 元禄G1・G2 元禄TZ 元禄KM
明和版08a.08-08b.01 (参照ページ)
与市扇の的を射し時別して・ 我国氏神正八まんとちかひしも
明和G 明和I 明和R 明和H 明和HO 明和W 明和N
松島往来04a
与市扇の的を射し
とき別而我国氏神 [別而(へつして)]
正八幡と誓ひしも此
上記のように、松島往来でも「ハ」が脱落しています。このことから、松島往来は明和版の影響を受けているという結論になると思うのですが、ところが、これがそう単純ではないのです。実は、「ハ」の欠落は、明和版よりも先に書かれた早大本・昔安本にも見られます。
早大10b.08 別而我国 [別而(べつして)]
昔安04b.01 別して我國
松島往来は早大本の「別而」と同じ表記になっています。これだけならば、偶然と見ることもできるかもしれませんが、松島往来にはもう一箇所、留意すべき表記があります。
松島往来15a
南に鳥海(とりのうミ)天を
さゝへ西はむや/\の
松島往来では、「鳥海(とりのうミ)」と仮名が振られています。しかし「鳥海」は「鳥海山(ちょうかいざん)」のことなので、仮名を振るならば「鳥海(てうかい)天をさゝへ」とするのが一般的です。もしかすると、松島往来の作者は、「鳥海」を「鳥海山(とりのうみやま)」という名の山と考えていたのかもしれません。
この部分について、昔安本では「鳥の海」となっています。
上記のように、昔安本では「鳥の海天をさゝえ」となっており、文意が通じにくくなっています。
早大本(26a.06-07) ・通解(3.25a.08)・版本37b.07(元禄A)では、「鳥海天をさゝえ」となっています。
「鳥の海」という表記は、これより少し前にも出てきます。
昔安19b.05-06
雨朦朧として鳥の海の山にかくる
通解3.22a.03-04
雨朦朧として鳥の海の山かくる
版本36b.07 (元禄A)
雨朦朧として鳥海の山かくる
早大本はこの部分が脱落し、松島往来ではこの部分は省略されています。
昔安が「鳥の海」となったのは、「鳥海」が「鳥海山」という山の名であることを知らなかったため、無理やり「鳥の海」としたのかもしれません。
通解は、和漢三才図会などを引いて、「鳥海山」について詳しく述べていますので、「鳥の海」としたのは、昔安系統の底本を尊重して、「鳥の海山」と考えたのかもしれません。
以上、先の「ハ」の欠落と「鳥海(とりのうミ)」との表記から、松島往来は、明和版の影響よりも、早大本系の影響を受けているのではないかと推測できます。(参照 奥の細道系統図)
----------------------------------------------
資料
・松島往来 天明八年(1788)版 東叡山麓下谷竹町 花屋久治郎板
・松島往来 文政四年(1821)版 東叡山麓下谷竹町 花屋久治郎板
・松島往来 仙台板 文化四年六月(1804) 仙台国分町十九軒 池田屋源蔵板
・松島往来 仙台板 文化十三年(1816)版 仙台国分町十九軒 池田屋源蔵板
仙台版は、日光から宮城の手前までをカットして、新たに宮城の名所などを書き足しています。また、仙台版の文化4年版は、「恐惶謹言」で終わっていますが文化13年版は「穴賢」で終わっています。
松島往来(新編松島往来)
天明八年載戊申十月吉日
滕耕徳 編書
書林 東叡山麓下谷竹町 花屋久治郎板
所蔵者 東京書籍株式会社附設教科書図書館 東書文庫
00a
天明八年板
新編松嶌往来
00b
松島往来
扶桑第一之好風
01a
実方中将東にて阿古屋の松
見まほしく五十四郡あまねく尋
けるにしれがたくてむなしくかへらんせし
折から賎しき樵夫のやすらひ居 [賎(いや)しき][賎]は[旅]と読める
けるにもしやと問れけれバ打うなづきて
みちのくのあこやの松に
木かくれて
いつへき山の出も [いつへき山]は[いつへき月]の誤り
やらぬか
といふ哥にて尋給ふなるべし
それハ出羽奥州一國の時の
事なり今二ケ国にわかれ
たれバ出羽にこそ
あれと
申せし
注:平家物語 2巻
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2543843/78
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2543843/79
01b・・・略
02a
松嶋往来
去頃奥羽暦覧い [去頃(さんぬるころ)]
たし此程令帰府候 [此程令2帰府1候][此程帰府令(せしめ)候]
長途無恙旅行を [無レ恙][恙無]
誓ひ奉らんと恐れ
02b
多くも先日光山を
拝し候往昔此御山を [往昔(むかし)]
二荒山と書しよし
空海大師開基の
とき日光と改め給ふ
03a
とかや千歳未来を
悟り給ふにや今此
御光一天に輝き
御宮の結構言語
道断申も中/\愚也
03b
中禅寺黒髪山華
巌滝霧降の瀧 [華巌滝(けこんかたき)] [巌(ママ)]
裏見の滝等打眺め
下山いたし那須野に
かゝり玉藻前の古
04a
墳同所八幡宮ハ那須
与市扇の的を射し
とき別而我国氏神
正八幡と誓ひしも此
御神と承候得者 [候得者][そうらへば]
04b
感應殊尊く覚候 [感應殊(かんをうことに)]
殺生石は山陰に
有り石の毒氣に
今亡びす又清水 [毒氣にレ今亡びす][毒氣今に亡びす]
流るゝの柳ハ蘆野ゝ
05a
里に有之相尋候 [有レ之][之有]
夫より白川の関路ニ
懸り爰にて道しる
べのものをかたらひ
承り候得者此関は [承(うけ給り)] [候得者][そうらへば]
05b
三関の第一也とかや
能因頼政の詠哥
なと存出し木々の梢 [存出(そんしいだ)し][存]判読難
半紅葉猶更絶感候 [絶感(たえかんニ)候]
かつミ刈浅香の沼は
06a
いつくの程にやさたか
ならす候忍ふの里へ
立こえしのふもち
摺の石を尋候へ者 [候へ者][そうらへは]
山陰に石は半土に [半土(なかはつち)に]
06b
埋れて哀れにもまた [埋(うつも)れて]
したはしく候是より
伊達の大木戸白
石の城を過笠嶋の [白石(しらいし)]
郡に入藤中将実方
07a
の塚岩沼の宿ニ着て
名に應ふ武隈の
松は枝葉左右に [枝葉(しゑう)]
別れて秋の最中(もなか)
といへとも千歳の色を
07b
現し名取川を
渉て仙薹の府に
至り宮城野の萩ハ
今程盛と咲乱れ猶 [今程(いまを)]
奥深くたとり行は
08a
十府の菅菰その邊
多賀の古城壺碑 [壺碑(つほのいしふミ)]
恵美朝臣修造して
天平寶字六年と
有之苔に埋れて [有レ之][之有] [埋(うも)れ]
08b
文字幽也野田の
玉川沖の石末の
まつ山猶塩竃の
明神へ参詣本社
廻廊瑞籬盡美候 [瑞籬(たまかき)] [盡レ美][美を盡(つくし)]
09a
大社就中珎其 [就中珎(なかんつくめつらしき)]
神前之燈篭文治
三年和泉三郎
寄進と有之六百 [有レ之][之有]
年来の俤眼前に浮 [浮(うかミ)]
09b
義士の勇名そゞろに [勇名(ゆうみやう)]
馨しく候則其地より
扁舟に棹し八百
八嶋の眺望誠ニ松島ハ
扶桑第一の好風と [と]
10a
賞し爰に漂ひ彼に [彼(かしこ)に]
着及黄昏雄島崎へ [黄昏(くはうこん)] [雄島崎(をしまかさき)] [及2黄昏1][黄昏(くはうこん)ニ及] [1点]脱
登候得者明月ハ海 [候得者][そうらへは]
上に浮ミ其佳景入
仙歟と被奇候夫より [入レ仙歟と被レ奇候][仙ニ入ル歟と奇被(あやしまれ)候] [被]は[無]に見える。
10b
瑞巌寺に詣當寺ハ
真壁平四郎出家し
入唐帰朝の後開山
とかやこれより平和泉
古戦場に至り秀衡
11a
の舊跡ハ田野と成て
金鷄山のミ形を残す
先高舘に上れハ衣川ハ [高舘(たかたち)]
泉ケ城を廻り大河に
落入る衣関光堂 [衣関(ころもかせき)]
11b
此邊見所多候岩 [此邊(このへん)]
手の里より南部路に
かゝり深山幽谷を [深山幽谷(しんさんゆうこく)]
経て山形領に出る
最上川は陸奥より出 [陸奥(むつ)]
12a
酒田の海に入る左右ハ
山覆ひ頃は中秋の
末に至諸葉黄落
漲る水に浮て竜田 [浮(うかミ)]
川も斯やと計覚候
12b
刈出す稲舟ハ矢よりも
はやく白糸の瀧ハ
紅葉の際/\に落て [紅葉(もミち)]
錦を晒かことく其興
難盡残多候得共 [難レ盡][盡難] [難盡(かたくつくし)]とある
13a
爰をも立て羽黒山
月山湯殿山江詣候
是を三山と申候由
此山中の事他言を
禁候得者具ニ不著候 [禁(いましめ)] [不レ著][著不(あらハさす)]
13b
谷の傍に鍛冶小屋
あり此国之鍛冶
霊水を撰て釼を打 [打(うつ)]
終に月山と銘を切 [終(つゐ)]
世に賞せらるゝ然而 [然而(しかふして)]
14a
江山流水の日数
を盡して已象泻に [已(すてに)]
赴候先能因嶋に
船をよせ三年幽居
の跡を尋ね向ふの
14b
岸に上れハ西行
法師の花のうへ
漕くと詠れたる
桜の老木此所より [老木(おいき)]
見わたせは風景ハ
15a
一眼の中に盡て
南に鳥海天を [鳥海(とりのうミ)]
さゝへ西はむや/\の
関路を限り東に
堤を築て秋田へ [築(つい)て] [秋][火+禾]
15b
通ふ道海北に構へ [海北(かいほく)]
浪うち入る所を汐
越と申候江のわたり
一里計其気しき
松嶋に似て又异也 [异(こと)也]
16a
まつ嶋は笑ふか
如く象泻は恨か
ことしとハ今こそ
想像候猶紀行 [想像(おもひやられ)候]
校合出来候者可入 [校合出来(きやうかうしゆつたい)]
16b
御覧ニ候恐惶謹言 [可レ入2御覧ニ1候][御覧ニ入可候]
月日
滕耕徳編書
2020/09/08
2021/01/24 改