2020年10月19日月曜日

宮城県多賀城市 興井(おきのい)と奥井守(おくのいのもり)[奥井守は興井守であることについて]

松尾芭蕉は奥の細道の中で、多賀城碑(壷碑)の後に、沖の石(沖の井)(興井)を訪れています。

おくのほそ道 井筒屋本 20b

それより野田の玉川沖の石を尋ぬ
末の松山ハ寺を造て末松山といふ
 松のあひ/\皆墓ハらにてはねを
 かハし枝をつらぬる契の末も終
 ハかくのこときと悲しさも増りて

曽良は奥の細道への旅の準備として名所を下調べした「名勝備忘録」の「興井」の項に、次のように書き込みをしています。

名勝備忘録 曽良旅日記 天理図書館善本叢書 和書之部 第10巻
曽良旅日記(十三ゥ) p102

興井 末松山ト 壱丁程間有       [壱][貳]の左に[壱]挿入
    八幡村ト云所ニ有仙臺ゟ塩竃ヘ行
    右ノ方也塩竃ゟ三丁町程有
            所ニテハ興ノ石ト云村ノ中屋敷
    之裏也

また、曽良旅行日記の本文には次のように書かれています。

曽良旅日記 天理図書館善本叢書 和書之部 第10巻
曽良旅日記(三十二ウ)(三十三オ) p144-145

一 八日 朝之内小雨ス巳ノ尅ゟ晴ル仙臺  [巳の尅][巳の刻]
  ヲ立十符菅壷碑ヲ見ル未ノ尅
  塩竃ニ着湯漬なと喰末ノ松山
      興井野田玉川をもハくの橋浮嶋
  等ヲ見廻リ帰・・・・・・・・

そして、山口の豪商の安部四郎右衛門の奥州旅日記には次のようにあります。

みちのく行  p52 

沖石   ○今ハ里中也トトモ汐の
      ミチヒ池上ニアラハル
 わかそてハ 汐干に
    見えぬ・・・・の
        ひとこそしらね かはくまも なし
右ハ 
 江古平吉ト云ル百姓ノ庭上也

 此男諸役御免トソ○此家ニテ   
 昼飯ヲ乞テ直ニ案内ヲ平吉ニ頼
 是ヨリ壷ノ碑三十丁計有

上記の歌は途中省略されていますが、次のようになります。

わかそてハ 汐干に 見えぬ (沖の石) の ひとこそしらぬ かはくまも なし

これは小倉百人一首にも入っている二条院讃岐の歌です。芭蕉も「沖の石」と書いているので、この二条院讃岐の歌を踏まえているのだと思います。一方曽良は「興井(おきのゐ)」としています。

これは次の歌を踏まえているのかもしれません。

おきの井て みをやくよりも悲しきは みやこしまへの 別れなりけり

この歌は小野小町の作とされ、伊勢物語にも取り入れられています。

曽良の名勝備忘録の書き込みに、「所ニテハ興ノ石ト云」とありますが、これは仙台藩から任命されたこの地の管理人がそのように言った。ということなのだと思います。 
 芭蕉と曽良がこの地を訪れたのは、元禄2年(1689年)5月8日 のことなので、初代の管理人である「平兵衛」或いは、3代目の管理人である「平兵衛(初代の孫)」であったものと思われます。また、安部四郎右衛門のみちのく行には、「右は、江古平吉(ごうこへいきち)ト云ル百姓ノ庭上也 此男、諸役御免トゾ」とありますが、この平吉は5代目の管理人となります。これらの管理人については「代數有之御百姓書出」に書かれています。(資料1参照)

ところで、この「興井」の管理人についてなのですが、宮城県の公式の文書などでは「奥井守(おくのいのもり)」とされています。次は「興井」の案内板です。

興井(おきのい) 国名勝
Oki-no-i
「沖の井」や「沖の石」とも呼ばれ、古くは『古今和歌集』
小野小町や、『千載和歌集』二条院讃岐などが和歌に詠んだ
歌枕ゆかりの地です。仙台藩準一家天童氏の屋敷があった
八幡村の民家の一角に位置しており、松尾芭蕉の『おくのほそ道』
の旅に同行した曾良は、興井が民家の裏手にたたずんでいる
ことを記しています。仙台藩による名所旧跡整備の一環として、
四代藩主伊達綱村は、地元の有力者を「奥井守(おくのいのもり)」に任命し、
諸役を免除する代わりに興井を手厚く保護させました。

 ここで疑問に感じるのが、興井(おきのい)を管理する者がどうして「奥井守(おくのいのもり)」なのか? ということです。「興井」を管理するのですから「興井守(おきのいのもり)」とするのが自然であるように思えます。

そこで、「奥井守」の載っている資料を見てみました。

宮城県史 24巻 宮城県史編纂委員会/編 宮城県史刊行会  1954年 
風土記御用書出   宮城郡陸方八幡村[多賀城町] p398-p404
代數有之御百姓書出 宮城郡陸方八幡村[多賀城町] p404-p405

するとやはり「奥井守」と書かれていました。(赤線挿入)

代數有之御百姓書出
(赤線挿入)

しかし、関連の箇所を見ると「興」となるべき文字がすべて「奥」と書かれていました。

風土記御用書出
(赤・青線挿入)

奥を「オキ」と読むのか? という問題は置くとして、地名である「オキの井」が「興」ではなく「奥」となっているのは、「奥」と「興」を取り違えていると考えるしかありません。 この資料よりも先に書かれた、「奥羽観蹟聞老志」「封内名蹟志」「封内風土記」これらには、「興」の字が用いられています。また、「興」の代わりに「沖」「起」「熾」を充てる場合があると書かれていますが、「奥」を充てるという記述はありません。

奥羽観蹟聞老志 佐久間義和(1653-1736)   宮城県  明治16年(1883) 国会図書館
封内名蹟志 佐藤信要 序 高橋以敬 寛保改元辛酉冬至日(1741)  仙台叢書第八巻 仙台叢書刊行会 
封内風土記 田辺希文(1693-1772) 校訂 鈴木省三(1853-1939) 仙台叢書出版協会 明治26(1893) 国会図書館

では、どうして「興」と「奥」を取り違えたかというと、おそらくそれは、「興」と「奥」の異体字がよくに似ているためではないかと思います。

の異体字 グリフウィキ u5965-itaiji-002

  の異体字 https://glyphwiki.org/glyph/sawd-26008.50px.png グリフウィキ sawd-26008

実は両者の取り違えは他でも見られます。次は、天野桃隣の陸奥鵆です。 早稲田大学図書館

陸奥鵆  天野桃隣
此所より八幡村ハ一里余細道を分入 八幡村
百姓の裏に興の井有 三間四方の岩廻リハ
池也 処の者ハ 沖の石と云 是ヨリ末の松山

ここには、「興の井」と書かれていますが、大正時代に翻刻された本には、「奥の井」と書かれています。陸奥千鳥 俳書堂 大正5年(1916) 国会図書館

ところで、上記の文字がどうして「興」であると断定できるのかというと、同じページに「奥州」という記述があるので、比較することができるからです。次にそれぞれ比べてみます。

興の井 奥州一

陸奥鵆(刊本) 早稲田大学図書館
陸奥鵆(写本) 八戸市立図書館
陸奥千鳥(翻刻) 国会図書館

上記のように「奥」と「興」は区別されていますが、誹諧堂の翻刻では「奥の井」「奥州一」と両者が混同されています。

このような混同は仙臺叢書の「封内名蹟志」にも見られます。
「興井郷。一に起居の郷と作る。八雲御抄奥の井の里あり。」 

封内名蹟志の原文を確かめることはできないのですが、「封内風土記」に次のようにあります。
「興井郷。一作起ノ居。観迹聞老志。名跡志共曰。八雲御抄。有興井ノ郷

つまり、「奥羽観蹟聞老志」と「封内名蹟志」には「興井」と書かれている。とあるのです。このことから仙臺叢書の封内名蹟志の「奥の井」との記述は、翻刻する際の誤りとみることができます。また、皇都島の項目の、小町の歌を「たきのゐて身をやくよりも悲しきは・・・」としていますが、「おきのゐ」の誤りです。おそらく変体仮名の「於」を「た」と見間違えたのだと思います。 

封内名蹟志についてもう少し詳しくみてみたいと思います。封内名蹟志には三種類の本があります。原本は漢文体で書かれた21巻の大書です。これを、一般にも読めるようにと佐藤信要本人が、3巻の漢字かな交じりに抄訳したのが「通俗封内名跡志」です。3種目は、甘柿舎主人こと 庄司惣七が、所蔵していた原本21巻を漢字かな交じりに翻訳した本です。仙台叢書の「封内名蹟志」は、惣七訳の翻刻になっています。この内「通俗封内名跡志」は写本があるので見てみたいと思います。

通俗封内名跡志 佐藤信要著 1巻45  宮城県図書館

通俗封内名跡志 佐藤信要著 1巻45  宮城県図書館

(画像をクリックすると大きな画像が出ます)

 八幡村
 興井
  農家に小池有池の中に景なる石有是を昔よ
  り興の石と称す二條院讃岐か沖の石の歌は
  此石の事にハあらす           [此石に事][に]見せ消ち右に[の]
’’ 
 興井郷(おきの井のさと)
   此村の事也或文字起居郷にも書也    [起居(おきい)]
   
   従二位範家卿
   郭公起居の里ハ過ぬ也いかなる人の夢結ふらん
’’
 皇都嶋(ミやこしま)
  小町の歌をもつて熾井都嶋同所興の石を都嶋
  とす
   昔陸奥国にて男女ありけりおとこ都へ
   いなんと云此女いと悲しうて馬のはなむけ
   せんとておきの井都嶋といふ所にてさけ
   のませて
 古今           小町
  おきの井て身をやくよりも悲しきハ都嶋へのわかれ也けり

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上記の「興」と「奥」をピックアップすると次のようになります。

通俗封内名跡志 佐藤信要著 興の井 奥細道
通俗封内名跡志でも、「興」と「奥」は明確に区別されています。(奥細道  1巻46) 

以上のことから、 「風土記御用書出」「代數有之御百姓書出」にある「奥の井」「奥の井の里」は「興の井」「興の井の里」を誤読した可能性が高く、「奥井守(おくのいのもり)」も「興井守(おきのいのもり)」を誤読した可能性が高いと思われます。
  仮にこの文書では「オキ」に「」の字を充てていたとしても、「奥井守」だけ「オク」と読むのは不合理なので、「奥井守」は「おきのいのもり」と読むのが自然であるように思われます。

ところで、通俗封内名跡志では、興井について「農家に小池有池の中に景なる石有是を昔より興の石と称す二條院讃岐か沖の石の歌は此石の事にハあらす」と、興の石と二条院讃岐の沖の石の歌の関連を完全に否定しています。しかし、仙台叢書の「封内名蹟志」ではどういうわけかこの部分が全く書かれていません。抄訳の「通俗封内名跡志」に書かれていいるのに全訳の「封内名蹟志」に書かれていないのは大変不自然なことです。もっとも、「奥羽観蹟聞老志」「封内風土記」ともに、「俗子以為二條院讃岐沖石ノ詠ハ則指2此石1者也」とあるので、もともと二条院讃岐の歌と「興の石」の関連は学問的には否定されていたということになります。この他にも、「鹽松勝譜」には「沖石 沖ノ井ノ傍小池中ニアリ。其石二丈余。土人誤テ源三位頼政ノ女。讃岐ノ賦スル所ノ石ト為ス。」と書かれています。また「嚢塵埃捨録」でも両者の関係を否定しています。(資料4.5 参照)

しかし先に見た、曽良の名勝備忘録には「所ニテハ興ノ石ト云」とあり、桃隣の陸奥鵆にも「処の者ハ 沖の石と云」と書かれています。そして松尾芭蕉は奥の細道でこの場所を「沖の石」と紹介しています。おそらく興井守は観光客を案内する際、「興井」と二条院讃岐の「沖の石」とを関連付けて説明していたのではないかと思います。それは、仙台藩がこの場所を「興井」「沖の石」の名所と認定したことによるものだと思います。そして現在も現地の案内板やインターネットの公式サイトで、「二条院讃岐などが和歌に詠んだ歌枕ゆかりの地」と紹介されています。

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資料1

宮城県史 24巻 風土記
風土記御用書出   宮城郡陸方八幡村[多賀城町] p398-p404
代數有之御百姓書出 宮城郡陸方八幡村[多賀城町] p404-p405

風土記御用書出   宮城郡陸方八幡村[多賀城町]
              仮肝入 榮 吉
                宮城県図書館所蔵

   八幡村
・・・・・・・・・・略
   奥の井
    古歌             小野小町
    奥の井に身をやくよりも悲しきハ都嶋への別なりけ
    り
   右奥の井守寛文九年 肯山様御代より被仰渡町屋敷御百姓
   平吉六代以前之祖父平兵衛代より相勤來右ニ付只今ともに
   諸役御免被成下候事
  久蔵様御家中
  十貳軒丁之内 一都嶋
   右古歌前ケ條ニ御書上仕候事
  一奥の井の里
    古 歌                範家卿
    ほとゝきすおき井の里は過ぬなりいかなる人の夢む
    すふらん
                     よみ人しらす
    衣うつきぬたの音をしるへにておきゐの里を尋つる
    かな


    
代數有之御百姓書出 宮城郡陸方八幡村[多賀城町]
              仮肝入 榮 吉
               宮城縣圖書館蔵
  代數有之御百姓
         町屋敷   奥井守 平 吉
右平吉儀先祖郷古助右衛門已前之名前代數幷何方より當所江取
移候義共相知不申候助右衛門義慶長年中より當村肝入相勤候由
申傳候間右助右衛門代より御書上仕候事
 先祖 肝入 郷古助右衛門 二代 助右衛門
                 子 肝入 郷古助左衛門
              三代 助左衛門
                 子 肝入 郷古 助 八
右助八代迄三代肝入御用相勤申候處被仰渡候何月幷在役年數共
相知不申候事
              四代 助八子肝入
                 幷奥井守  平兵衛
右平兵衛義寛文元年肝入御用被仰渡相勤申候處同九年 肯山様
當村奥井御取立畑代四拾八文之所御用地ニ被召上御辨當場共ニ
御拵罷成右平兵衛直々奥井守被仰付其身持高三貫三拾文ゟ出御
蔵入小役御人足御合力被下置肝入幷奥井守共元禄二年迄貳拾九
ケ年相勤申候事
 五代 平兵衛子        六代 平左衛門子奥井
    肝入幷奥井守 平左衛門    守大肝入幷肝入 平兵衛
右平兵衛義元禄二年肝入幷奥井守共被仰渡相勤申候処亨保十一
年 獅山様御代願之上持高諸役御免被成下亨保十五年九月當郡
陸方大肝入被仰渡寛延二年迄四十三ケ年両役相勤申候事
              七代 平兵衛子
                  奥井守 平左衛門
右平左衛門義寛延貳年奥井守被仰渡四代目平兵衛御合力之通持
高ゟ出ル御蔵入小役御人足被下置安永二年迄貳拾五ケ年相勤申
候事
              八代 平左衛門
                 子奥井守 平 吉
右平吉義安永二年三月父跡役被仰渡今以相勤罷在申候事
右之通先祖郷古助右衛門代ゟ當平吉代迄八代御百姓相續仕肝入
御用祖父平兵衛代迄引續右平兵衛義は大肝入御役迄相勤申候四
代目平兵衛代より奥井守被仰渡當平吉代迄五代相勤申候事
    以上 壹人
右代數之内御賞事又ハ家ニ付持來候武具等無御座候事
右之通風土記御用ニ付此度相改御書上仕候 以上
  安永三年九月

 

注:八幡村の肝入であった「郷古助右衛門(ごうこすけえもん)」を初代とし、4代目の「平兵衛」が寛文9年に「興井守」に任命される。任命したのは肯山公(伊達綱村)であるが、当時11歳であるので、この地を歌枕に認定しようと考えたのは、綱村本人ではない可能性が高い。6代目の平兵衛は大肝入となり郷古家は隆盛を極めたようである。しかし7代目の平左衛門、8代目平吉は興井守のみで、肝入にもなっていない。

 

資料2

仙台叢書 8巻 封内名蹟志  解題

 封内名蹟志の原本は。仙臺藩士佐藤信要の著にして。仙臺封内凡二十一郡内の。名所・舊蹟を記したるものなりしが。元来漢文なれば。婦幼等の誦讀理解に。便ならざることを恐れ。宮城郡原の町。甘柿舎主人庄司惣七が。其所藏の原本に就いて。之を國文に譯したるものは。即ち此書なり。此書の原稿は。庄司氏が篤志によりて。宮城縣圖書館に寄贈したりしものを。謄寫したれども。謄寫の誤り蠧触の所などもなきにあらざれば。虗白を以て之を埋めたり。宜しく諒察すしたまふべし。
 庄司氏。名は惣七。箕風と號し。其居に名て甘柿舎といふ。家資素より豐富なれば。讀書を好み。書畫を愛し。以て樂となせり。故に其家多く幅軸と書籍とに富み。藏書家藏幅家として。世に稱せらる。而して。書籍の如きは。私有すべからず。宜しく公衆の閲覽に供すべしとの。豫告ありし事とて。孫惣松其遺志を繼承して。其全部を宮城縣圖書館に寄贈したり。其數凡そ六百零八部。二千四百三十八册なり。是實に大正七年十二月廿七日なりとす。

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資料3

八雲御抄 五巻 里  

おきゐの里(おき井の里)

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資料4
 
嚢塵埃捨録 大場雄渕 仙臺叢書七巻  archive.org
 
奥の井。同村三里三拾四町五十三間。     [同村]八幡村のこと。
小金澤屋敷。
有2古井1爰に沖の石とて。四方三間余に見ゆる石あ
り。立石伏石・流石抔云。さま/\に組合せたる石
なり。其上へ二松と榎の有レ樹。最初は邊に竹垣を
結廻して置けるか。此頃傍に堀を掘り又上に埋隠
たるをも顯し。是に向ひて太守公の御假屋抔建ら
れしなり。是を鹽干に見えぬ沖の石なりと。人の云
事あれ共。さはなくしてこれは。奥の井と云所なり
二条の院讃岐鹽干に見えぬ。沖の石とよみしは非2
名所1。沖の石迄なり。此石は奥の井と書り美敷石な
り。
                 小野小町
古今集
 奥の井て身を焼よりも悲しきは都島江の別れな  [都島江] 注2
 りけり。

注:この文書には翻刻の際の「奥」と「興」の誤読と、筆者本人の「沖の石」と「興の井」との混同などがあるようで意味が通じにくい。
「沖の石とよみしは名所に非ず。沖の石迄なり」とは、沖の石という詞は「名所」ではなく「単に、沖にある石という意味である」ということか?
「此石は奥の井と書り美敷石なり。」というのは、奥羽観蹟聞老志の「八幡農家中有2小池1池中奇石礧々佳状可レ 愛 州人古来稱メ曰興ノ石ト  奇絶如2盆池1池中ノ乾隅有2水脈1出ツ是乃興ノ井也」と取り消し線の部分を読み飛ばしたと考えれば「此石は奥の井と書り」という不合理な表現の説明となるかもしれない。この混乱部分は資料5の「奥州名所図会」では意味の通じるように改善されている。

注2:[都島江][都島べ]の誤り。
「へ(e)」は「屁」を連想させることから「江」の字を用いる場合があった。
この歌は本来「都島辺(べ)の別れ・・・」とするのが一般的であるが、当時は濁点表記がなかったので、雄渕は「都島へ(e)の別れ・・・」と考えたのだろう。

資料5

奥州名所図会 初編巻之一 大場雄渕  文政12年(1829)頃
日本名所風俗図会1 奥州・北陸の巻 角川書店 p200-201
 
奥州名所図会
興の井ハやはた街の
南農家の背戸に
あり池水に満干あ
りて水草多く
夏日猶佳興
なり

 ○興井石(おきノいノいし) 八幡の郷、いはゆる興の井の郷なり。農家の後園に井池あり。地中に奇石あり。形状図の如く尋ねざるべからず。また土人曰く、彼の奇石あるの池を去る事一丁ばかり東、八幡宮の正西にあたりて、方一丁にあまれる石あり。その上に水草繁茂す。また、その処潮汐の気味ありとぞ。されど東遊の好士、みだりに田畔を踏みあらし、道を求めて、農事を妨ぐるによつて、郷中一同に秘して語らずと言ふ。かくの如き情薄きしれわざは、月花を友とする者の為すべき事にもあらず。さらば、諸国一見のため通行する一向無下の俗物の行跡なるべし。またこの石の上の水を筆にそそぎ、物をかくに乾きて、薄墨いろになる。よつて、土人うす墨石と言ふ。これ古の沖ノ井なるべし。
 
注:挿絵に「池水に満干ありて」と書かれているが、「みちのく行」にも「汐のミチヒ池上にアラハル」と書かれている。この部分は、興井守の観光案内なのかもしれない。「古の沖ノ井」について書かれているが、これは、先の資料4の混乱を整理した部分であろう。二条院讃岐の歌を取り除いたことで、意味が通じている。「旅の者が田畔を荒らすので、その場所を教えない」というのは、奥の細道の「信夫文知摺」の話と似ている。
 
おくのほそ道 素龍筆 井筒屋本 14a
里の童部の来りて、教へける、
昔は、此山の上に侍しを、往来(ゆきき)の人の、
麦草をあらして、此石を試侍を
にくみて、此谷につき落せば、石の
面、下(した)ざまにふしたりと云、さもある
べき事にや 

松島紀行 大津直定
茨城県立歴史館 32
それより一町計行て百姓郷古平左衛門といへる者の
庭に沖の井と云所あり十間四方程の内に黒石たく
さんに有て都嶋の都石といふよし往古は海なりと
見えて石面に蠣壳(かきから)多く付てあり此石硯に宜しく國
主よりの留石なれり此あたり都て八幡村といふ善知  
鳥(うとう)の謡の文句に末の松山浪あれて袖に浪こす沖の
石又ハ干かたとて海越(うミこし)成し里迄もと諷(うた)ひしハ云か
けの文句にて此邊に沖の石といへるハなし沖の石
とハ若州西小河といへる山の後の海辺にあり是二
条院讃岐近流の地也讃岐村といふあり讃岐の
墳墓あり考るにさぬきハ源三位頼政卿の息女也
頼政宇治川の端にて自殺の後に讃岐近流となり
しにや我袖は汐干に見えぬ沖の石といへる哥ハ述
懐の哥なるを千載集十二恋の部に出されしは
俊成卿の情なるへし實ハ讀人しらずと有へき人なり
しを近流以前の詠哥にして名をあらはし給ふなる
へし八幡村の先キ紅葉山といふありはや松島も次
第に跡に遠さかり名残をしさのまゝ
  数/\の日を松島に尋来て
   とまりもやりて帰る岩波  直定


与謝蕪村 奥の細道 上巻
与謝蕪村 奥の細道 下巻
12-13. 14. 15. 16-17. 18.


表紙 000 
1.序章 001 002 003.03
2.旅立 003.03 004 
3.草加 005 006.05
4.室の八島 006.06 007.05
5.仏五左衛門 007.06 008 009.01
6.日光 009.02 010 011 012.03
7.那須 012.04 013 014.06
8.黒羽 014.07 015 016.07
9.雲巌寺 016.08 017 018 19.07
10.殺生石・遊行柳 19.08 020 021.02
11.白河の関 021.03 022.06
12.須賀川 022.07 023 024 025.05
13.あさか山 025.06 026.06
14.しのぶの里 026.06 027.07
15.佐藤庄司が旧跡 027.08 028 029.07
16.飯塚 029.07 030 031.08
17.笠島 031.08 032 033.03
18.武隈 033.04 034 035.01
19.宮城野 035.02 036 037.04
20.壺の碑 037.05 038 039 040.03
21.末の松山 040.04 041 042.04
22.塩竈 042.04 043 044.04
23.松島 044.05 045 046 047 048 049.05
24.石巻 049.06 050 051.07
25.平泉 051.08 052
053 054 055.01
26.尿前の関 055.02 056 057 058 059.01
27.尾花沢 059.02 060.03
28.立石寺 060.04 061
29.最上川 062