2020年8月10日月曜日

多賀城碑 三船真人と見雲真人と三熊野ノ松戸

文化二年(1805) 山口町(現在の山口市)の豪商、安部四郎右衛門が奥州旅行をした時の道中記が残っています。[詳しくは、「けやき会」翻刻解説 奥州旅日記 山口文書館

旅の中で四郎右衛門は、多賀城碑も訪れているのですが、そこにとても興味深い記述があります。

みちのく行  p52
三熊野ノ松戸筆也
▲壷碑 多賀城跡也

三熊野ノ松戸筆也とは、『この壷碑(つぼのいしぶみ)を書いた人物(能書家)は「三熊野ノ松戸(みくまのノまつど)」である。』 という意味だと思います。先に、壷碑の文面については詳しく見てきましたが、碑文に名前が出てくるのは、多賀城を創建した「大野朝臣東人」と、その後に多賀城を修造してこの碑を建立した「藤原恵美朝臣朝獦」の二人だけです。では、この能書家の名前はどこから出てきたかというと、それは「日本総国風土記」からではないかと思います。

壼碑考(多賀古城壼碑考) 本郷弘斎(平信恕) 享保元年(1716年)
2.多賀城古城壼碑考 01b
日本風土記曰。陸奥國宮城郡。坪碑。有鴻
之池 今廢ス 為故鎮守ノ門碑。恵美朝獦立之。
見雲真人清書也。記異域本邦之行程ヲ。令
旅人ヲシテ為迷コトヲ

上記のように、日本風土記(日本総国風土記)では、碑を立てたのが「恵美朝獦」で、それを清書したのが「見雲ノ真人(みくもノまひと)」と記されています。 そしてこの「見雲ノ真人」と「三熊野ノ松戸」の音を比べてみると、両者は非常に似ています。つまり、「みくもノまひと」が時を経るうちに「みくまのノまつど」と変容したと考えられるのです。

これとは別に、名前の変容については新井白石が佐久間洞巌との書簡で次のように述べています。

新井白石全集 5巻
 編集:市島譲吉 発行:吉川半七
p454 十一月十三日
・・・・・・・・・・・・・・・さて壷碑の事 見
雲真人のよしいかにも風土記の残編にて見及候き
此人いかなる人と御心得被成候やらむこなたに
てはたしかなるず候 真人と申すは天武の御時に定
られ候八姓の第一皆々皇子の別にて候 しかるに姓
氏録にも続日本紀にも見雲真人と申すは無之候
三国真人と申すは有之候 旧事古事 日本紀相考候
に天神と申す中に豊斟渟と申すを豊国野とも豊雲  [豊斟渟(とよくね)]
野ともしるされ候 むかしは国も雲も相通じ用ひ候
例多々に候上はミクモミクニ一声の転と心得候て
さて神亀天平の比の三国真人の姓の人ことごとく
伝記考見候にものよくかき候と聞へ候人無之候
淡海真人三船の事は天下第一の能書文章の名候よ
したしかに続日本紀に見へ候て三船真人[を御船真人]ともしる [を御船真人]脱を他版で補う
され候見へ候むかしは文字にかゝはらずして字の
声にて通用よのつねに候見雲真人は疑もなき淡海
真人三船の事を転写あやまり候てと申す字を
なとかゝれ候を楷書にきと雲に作り候故に日本に
なき人のごとくになり候事とこれらの類も老拙考
置候事に候如何それに思しめしよりも候やらむ時
代はひしと合候名だかき善書勿論に候

要約すると、白石は、『日本総国風土記にある「見雲真人」について色々な書物にあたってみたが「見雲真人」という名の人物は見当たらなかった。しかし「三国真人」という人物ならいる。「見雲(みくも)」と「三国(みくに)」は、音が一つ違うだけなので、この人物なのかもしれいと考えたが、壷碑の建立された時代の能書家で「三国」という人物は見当たらなかった。しかし当時「淡海真人三船」という天下第一の能書家がいた。この人物こそが「見雲真人」であろう。おそらく、三船真人を転写する際に、船の文字を雲に近い字体で書いたため、楷書にした際に船を雲と取り違えてしまったのだろう。』と言っています。

新井白石の説を信じるならば、「三船真人(みふねノまひと)」を書き間違えて、「見雲真人(みくもノまひと)」となったということになります。そして更に安部四郎右衛門の道中記によれば、「見雲真人(みくもノまひと)」は「三熊野ノ松戸(みくまのノまつど)」に変容したということになります。

これらの変容は、書誌学的にも民俗学的にも大変興味深いものですが、しかしこれには大きな問題があります。それは前にも書いたように、「日本総国風土記は偽書である」という問題です。日本総国風土記は、奈良時代前後に編纂された地誌とされているのですが、17世紀に作られた偽書であるというのが現在では定説になっています。
 つまり偽書である総国風土記にしか載っていない見雲真人が、三船真人と同一人物ということがありえるのか? というのが問題となります。また、四郎右衛門は「三熊野ノ松戸」をどうやって知ったのか? という問題もあります。まず、四郎右衛門の道中記をもう少し見てみたいと思います。

四郎右衛門の道中記には、四郎右衛門が壷碑を訪れる前に「沖ノ石」を訪れていることが記されています。

みちのく行  p52
▲沖石   ○今ハ里中也トトモ汐の
      ミチヒ池上ニアラハル
 わかそてハ 汐干に
    見えぬ・・・・の
        ひとこそしらね かはくまも なし
右ハ 
 江古平吉ト云ル百姓ノ庭上也
 此男諸役御免トソ○此家ニテ   注:[○家ニテ][ニテ]判読難
 昼飯ヲ乞テ直ニ案内ヲ平吉ニ頼
 是ヨリ壷ノ碑三十丁計有

江古平吉について、「此男諸役御免トソ」とあるので、平吉は仙台藩から沖ノ井(興ノ井)の管理を任された「興井守」ということがわかりますそして「昼飯ヲ乞テ直ニ案内ヲ平吉ニ頼」とあるので、壷ノ碑についての案内も平吉にしてもらったということになると思います。つまり、「三熊野ノ松戸筆也」という情報を四郎右衛門に伝えたのは平吉である可能性が高いということになります。すると、平吉はなぜ「見雲真人」を「三熊野ノ松戸」としたのかが問題になります。
 壼碑考が出版されたのが享保元年(1716)で、四郎右衛門が旅をしたのが、文化二年(1805)ですから、90年の歳月とともに変容したと見ることもできるかもしれませんが、しかしその間にも、壼碑考を観光案内用に簡略化した「多賀城址壼碑図」が大量に発行されており、これには日本総国風土記の「見雲真人」の記述もあります。「興井守」の平吉がそのことを知らないとは考えられません。
 想像をたくましくするならば、当時、日本総国風土記はすでに偽書と知られていたので、それを払拭するために、地域の昔ながらの伝承として「三熊野ノ松戸」という人物が知られていて、それが「見雲真人」である。というようなストーリーが作られていたのではないのか? と考えられるのです。

注:「風土記御用書出 宮城郡陸方八幡村 代数有之御百姓書出」に平吉の名前が載っています。平吉は安永2年(1773)に興井守の役を父親から継いでいます。
 ただ、「江古平吉」は「郷古平吉」の誤りです。郷古(ごうこ)は珍しい名字ですが、日本の中で宮城県が一番多くいるようです。
  四郎右衛門は平吉のところで昼飯を食べていますが、平吉の先祖が興井守に任命された時に、「御弁当場」も設置したとあるので、平吉の代にも食事ができる場所があったのかもしれません。
 「興井守」は宮城県史などの公式資料では「奥井守」となっていますが、「興」の字は崩し方によっては、「奥」と大変よく似ているので、風土記御用書出が明治期に浄書された際に誤った可能性が高いように思います。この点についてはもう少し詳しく見てみる予定です。

 翌日、四郎右衛門は塩釜へと向かい、その後安倍出雲守のもとを訪れています。

みちのく行  p55
一 廿九日快晴早朝 塩釜宮詣
  夫ヨリ安倍出雲守訪ヒ壷碑
  㕝相頼候事

四郎右衛門は安倍出雲守のもとを訪ねて、壷碑についてなにか頼み事をしたということなのですが、それはもしかすると、壷碑の拓本を所望したのかもしれません。また、四郎右衛門は、天明元年(1781)版の「多賀城址壼碑図」を入手しているのですが、ことによると、文化二年(1805)当時は在庫がなく、天明元年版を手に入れたのかもしれません。

注:安倍出雲守は、塩釜神社の神職、阿部出雲守のことであるようです。文久元年(1861)奉納の算額に名前が見えます。(同一人物かは不明) Google

再び、新井白石と佐久間洞巌の書簡について見てみたいと思います。書簡には白石の推論以外にも不自然な点があります。
佐久間洞巌は、正徳四年(1714年)に日本総風土記を書写しているのですが、目録の最後の部分に次のようにあるのです。

 p04
 白石先生曰看来レハ則此書難信者往々有之盖贋書歟以可疑者多

これを見ると、白石は日本総国風土記が偽書であると指摘しているのです。 しかし、先の書簡では、見雲真人は三船真人で間違いないとして、日本総国風土記について、「時代はひしと合候 名だかき善書勿論に候」とこの本が真正の書であると太鼓判を押しています。また、別の日の洞巌への書簡には次のようにあります。

新井白石全集 5巻 編集:市島譲吉 発行:吉川半七
p442 六月二日
一 風土記の事に付貴国の事しるし候は格別のものと
御聞候由此間其御用に懸り候人たづね来られ直談
承候に風土記は一冊も真の物は無之候 にせもの
どもに候と申され候さのみ奥ゆかしくも思召すま
じく候 我等新宅の辺よりも上り候ものはたしかに
承候 惣じて如此の事俗人の申す所わけもなきも
のにて候・・・・

つまり、『日本総国風土記について調べている人物が白石のもとにやってきて、風土記はすべて偽物だと語ったが、そんなことを言っているのは俗人であって、気にすることではありませんよ。』と白石は書いているわけです。

これらの書簡の白石の態度と、洞巌が書写した日本総国風土記の但し書きみられる白石の言葉は、180度違っています。これらの齟齬はどこから生じているのか? もう少し調べてみる必要があるかもしれません。
 
話は変わりますが、安部四郎右衛門は松島を訪れて道中記に残しているのですが、それは「松島賦」を敷衍しています。

みちのく行 p56
東南ヨリ海ヲ入テ江の内三里七十ニ峯
数百の 嶌々其名記スニイトマナク
ソハタツモノハ天を指 臥モノハ波ニ匍
匐アルモノハ二重 三重ニタゝミ負ル
アリ抱ルアリまかきか嶋ハあまの
小舟漕つれて肴わかつ声/\に
つなてかなしもとよミけむも宜
なるか 遥沖にハ白なミたちて松ニ
交ヘル花かとあやまたれ西に
法蓮密寺境内立わたり北に瑞岩禅寺
五大堂 月見嵜にハ大公秀吉公ヨリ
拝領の亭ありて松嶌風景○さらなれハ○凡
洞庭西湖を恥すと翁の文にも
書付侍りしとそ

森川許六が編纂した「風俗文選」宝永三年(1706) は好評を博し、その中に収められた「松嶋賦」は単独で本になっています。松嶋名所文庫 文政四年(1821) 再板。
四郎右衛門も旅行前に松嶋名所文庫や松嶋往来などは目にしていたのかもしれません。


与謝蕪村 奥の細道 上巻
与謝蕪村 奥の細道 下巻
12-13. 14. 15. 16-17. 18.


表紙 000 
1.序章 001 002 003.03
2.旅立 003.03 004 
3.草加 005 006.05
4.室の八島 006.06 007.05
5.仏五左衛門 007.06 008 009.01
6.日光 009.02 010 011 012.03
7.那須 012.04 013 014.06
8.黒羽 014.07 015 016.07
9.雲巌寺 016.08 017 018 19.07
10.殺生石・遊行柳 19.08 020 021.02
11.白河の関 021.03 022.06
12.須賀川 022.07 023 024 025.05
13.あさか山 025.06 026.06
14.しのぶの里 026.06 027.07
15.佐藤庄司が旧跡 027.08 028 029.07
16.飯塚 029.07 030 031.08
17.笠島 031.08 032 033.03
18.武隈 033.04 034 035.01
19.宮城野 035.02 036 037.04
20.壺の碑 037.05 038 039 040.03
21.末の松山 040.04 041 042.04
22.塩竈 042.04 043 044.04
23.松島 044.05 045 046 047 048 049.05
24.石巻 049.06 050 051.07
25.平泉 051.08 052
053 054 055.01
26.尿前の関 055.02 056 057 058 059.01
27.尾花沢 059.02 060.03
28.立石寺 060.04 061
29.最上川 062