2020年2月24日月曜日

与謝蕪村 奥の細道画巻の底本について Part.2

 与謝蕪村 奥の細道画巻の底本について Part.1 からの続きです。

(版).元禄版おくのほそ道: 奥の細道 : 素竜本 野村宗朔 編 大倉広文堂 (明和版系)をベースに、国文研鵜飼 02元禄K などを参照
(了).了川による模写 柿衛文庫蔵  画巻
安永丁酉秋八月 (安永六年八月) (1777年9月2日~9月30日) 蕪村の奥付の日付 
天保癸巳夏五月 (天保四年五月) (1833年6月~7月) 了川による模写の日付
注:参考文献に全文の影印がないため抜けている部分は空白
(海).海の見える杜美術館蔵 (旧 王舍城美術寶物館) 画巻 全一巻  
安永七年六月 (1778年6月25日~7月23日)
(京).京都国立博物館蔵 (旧 平山亮太郎 蔵) (旧 北村太三郎 蔵) 画巻 全二巻 
安永七年十一月 (1778年12月19日~1779年1月17日)
(山).山形美術館蔵 屏風 一帖 六曲 
安永八年秋 (1779年)
(逸).逸翁美術館蔵 画巻  全二巻
安永八年十月 (1779年11月8日~12月7日)

・色による分類
黄色:漢字→かな 
灰色:かな→漢字 
橙色:送り仮名 
水色:異字体 
緑色:別字 
赤色:誤字・脱字・衍字


・誤読と他の本を参考にしたと思われる訂正について

03a.03
(版).呉天に白髪の恨・・を重・ぬといへ共・
(海).呉天に白髮のうらミを重ぬといへとも 
(京).呉天に白髪の恨・・をかさぬといへとも [同行末]
(山).呉天に白髪の恨・・を重・ぬといへとも [同行末]
(逸).呉天に白髪の恨・・を重ぬといへとも



奥付の日付からすると、一連の作品は、(了)→(海)→(京)→(山)→(逸)の順で制作されているのだが、上記の文字の誤読と訂正の観点からみてみると、蕪村は明和版の「重ぬ」を「かさぬ」と読み、(海)(逸)で「重ぬ」と表記したと思われる。その後他の本を参考にしてか?注1 (京)では「かさぬ」とし、(海)(逸)で「ね」を消して「重ぬ」と訂正したと考えられる。(山)の「重ぬ」は、「かさねぬ」の訂正前に書かれたか訂正後に書かれたかは判断できない。

(山)の「重ぬ」は、明和版の「重ぬ」を「かさねぬ」と読んだが、そのまま「重ぬ」と表記している可能性と、「かさねぬ」を「かさぬ」に訂正した後に制作され「重ぬ」と表記した可能性の二つが考えられる。

注1:(柿)は、「素龍筆 柿衛本 おくのほそ道」 岡田利兵衛 編 新典社 
「かさぬ」と仮名で書かれている。蕪村が柿衛本を直接参照したとは思えないが、「かさぬ」と仮名でかかれた本を参照した可能性が考えられる。
以上のことから、この部分に関しては、(京)よりも先に(海)(逸)が書かれたとみることができる。

12b.04
(版).脇㐧三とつゝけて三巻となしぬ
(了).脇㐧三とつけて三巻となしぬ [同文末]
(海).脇㐧三とつゝけて三巻となしぬ [同文末]
(京).脇㐧三とつけて三巻となしぬ [同文末]
(山).脇㐧三とゝケて三巻となしぬ [ツゝケて][て][]消し右に[ゝケ]添える
(逸).脇㐧三とつゝけて三巻となしぬ



奥付の順番を考慮せず、文字の誤読と訂正の観点からみてみると、蕪村は、明和版の「つゝけて」を「つけて」と読み、(了)(京)で「つけて」、(山)で「付て」と表記し、その後他の本を参考にしてか? (海)(逸)では「つゝけて」とし、(山)では「」を消して「ツゝケて」に訂正したと考えられる。
以上のことから、この部分に関しては、(海)(逸)よりも先に(了)(京)(山)が書かれたとみることができる。

この2つの事例からすると、蕪村は一連の「奥の細道」の制作を同時並行的に行った可能性がある。

2020.1.29


・単純な誤字脱字について 
下記は誤字脱字を同じ箇所でしているものをピックアップしたものである。

04a.06
(版).卅日日光山の梺に泊るあるしの
(海).卅日日光山の梺に泊るあるし
(京).卅日日光山の梺に泊るあるし
(山).卅日日光山の梺に泊るあるしの
(逸).卅日日光山の梺に泊るあるしの
07a.07
(版).のとゝまる所・・にて馬を返し給へと
(了).のとゝまるところにて・・返し給へと
(海).のとゝまるところにて馬を返し給へと
(京).のとゝまる所・・にて・・返し給へと
(山).のとゝまるところにて馬を返し給へと
(逸).のとゝまるところにて馬を返し給へと
07b.03
(版).やさしかりけれは
(了).やさし・・けれは
(海).やさしかりけれは
(京).やさし・・けれは
(山).やさし・・けれ
(逸).やさし・・けれは
10b.06
(版).此柳みせはやなと折/\にの給ひ
(海).此柳みせはやなと折/\の給ひ
(京).此柳せはやなと折/\にの給ひ
(山).此柳せはやなと折/\にの給ひ
(逸).此柳せはやなと折/\の給ひ
13b.01
(版).花かつミとは云そと人々に尋侍れ
(海).花かつミとは云そと人々に尋侍れ
(京).花かつ云そと人に尋侍れ
(山).花かつ云そと人に尋侍れ
(逸).花かつとは云そと人々に尋
22b.06
(版).一の好風にして凡洞庭西湖を恥す
(了).一の好風にして凡洞庭西湖恥す
(海).一の好風にして凡洞庭西湖を恥す
(京).一の好風にして凡洞庭西湖を恥す [同行末]
(山).一の好風にして凡洞庭西湖を恥す
(逸).一の好風にして凡洞庭西湖恥す
25a.01
(版).入唐帰朝の後・開山す其・後・に
(了).入唐帰朝の後・開山す其・のち
(海).入唐帰朝のゝち開山すそのゝち
(京).入唐帰朝の後・開山す其・後・に
(山).入唐帰朝の後・開山す其・後・
(逸).入唐帰朝のゝち開山すそのゝち
25b.05
(版).ひ・人家地をあらそひて竃・・の
(海).ひ人家地をあらそひ竃・・の [同行末]
(京).ひ・人家地をあらそひて竃・・の [同行末]
(山).ひ人家地をあらそひ竃・・の
(逸).ひ・人家地をあらそひてかまと
29b.08
(版).わかれぬ跡・に聞てさへ胸・とゝろく
(了).わかれぬ跡・に聞てさへ胸・とゝろく
(海).わかれぬ跡・に聞てさへ胸・とゝろく
(京).わかれぬあとに聞てさへ胸・とゝろく
(山).わかれぬあとに聞さへ胸・とゝろく
(逸).わかれぬあとに聞さへむねとゝろく
52a.03
(版).筆をとらせて寺に残・す
(海).筆とらせて寺にのこ
(京).筆をとらせて寺にのこす [同行末]
(山).筆とらせて寺にのこす [文字空け]
(逸).筆をとらせて寺にのこす [同行末]

上記の誤字脱字は、不注意による読み飛ばしや写し間違いと考えられ、それを同じ箇所でしているということになる。このようなことが偶然に起こるとは考えられない。
この観点からすると、一連の作品には2系統の手本があったと考えられないだろうか? 蕪村は「奥の細道」を制作するに当たり、まず「明和版」を基に下書きを2本書きそれらを手本にしのである。つまりその手本に誤字脱字があったのである。このように仮定するならば、同じ箇所での誤字脱字が生じたことの説明となる。
(下書きについては、色々なパターンが考えられる)

2020.2.2


・単純な誤字の訂正について

28b.06-28b.07
(版).大山を隔・・て道さたかならされハ道しるへの人を
(了).大山を隔・・て道さたかなら道しるへの人を
(海).大山を隔・・て道さたかならされハ道しるへの人を [ならす][]の右に[さ]
(京).大山を隔・・て道さたかならされハ道しるへの人を
(山).大山を隔・・て道さたかならされ道しるへの人を [ならす][]消し右に[さ]
(逸).大山をへたて道さたかならされ道しるへの人を



この例では、下書きの段階で「ならされは」を「なられは」と単純に誤記し、それを清書してから、或いは清書の最中に誤りに気付き訂正したのではないかと思われる。
この観点からすると、この部分では、(了)(海)(山)で同じ手本が用いられ、(京)(逸)では別の手本が用いられたということになる。
 ただ、柿衛本(柿)と昔安本(昔)では次のように表記されている。

大山を隔て道さたかなら道しるへの人を

(柿)(昔)では、「ならされは」ではなく「なら」と表記されているのである。(了)(海)(山)の「なられは」もこれとなんらかの関係があるのかもしれない。そうであるならば様相もまた変わってくる。

2020.2.7


・送り仮名の補いによる訂正について

40a.01
(版).物・語・・するをきけハ越後の国・新
(了).物・かたりするをきけ越後の国・新
(海).ものかたりするをきけハ越後の国・新
(京).物・かたりするをハ越後の國・新 [聞ハ][聞ハ][]挿入
(山).物・かたりするをきけハ越後のくに
(逸).物・かたりするを越後の国・新 



この例では、下書きには「きけは」と「聞は」の二つの系統があったと考えられ、(了)(海)(山)は「きけは」とし、(京)(逸)は「聞は」としたと考えられる。そして(京)では「ケ」を補って「聞ケハ」と訂正をしたように見える。
 一方で、蕪村はその時の感性で「きけは」を「聞は」に変更した可能性も考えられる。しかし(京)の「ケ」の挿入による訂正からすると、「聞は」となっている下書きを基に清書し、その後「聞ケば」に訂正した可能性が高いように思われる。
 また、蕪村は明和版の「きけは」の仮名表記を「聞は」と漢字表記にしているところから、他の本を参考にした可能性も考えられる。例えば、昔安本では次のような表記となっている。

(昔).物語するを聞ハ越後の国新
 
2020.2.13

38a.07
(版).さに悲しみをくはえて地勢魂
(了).さに悲しみをくはえて地勢魂
(海).さに悲しみをくはえて地勢魂
(京).さに悲し加・・て地勢魂
(山).さに悲しみを加・て地勢魂
(逸).さに悲しみをくはえて地勢魂



この例では、下書きには「くはえて」と「加へて」の二つの系統があったと考えられ、(了)(海)(逸)では「くはえて」とし、(京)では「加て」(山)では「加へて」としたと考えられる。
 一方で、蕪村はその時の感性で「くはえて」を「加へて」に変更した可能性も考えられるが、 「くはえて」「加て」の「へ」表記の違いが生じていることから、他の本を参考にした別系統の下書きがあった可能性が高いように思われる。

自筆本(自).かなしをくは
曽良本(曽).かなしをくは
昔安本(昔).かなしをくは

   (版).悲しみをくはえて
   (山).悲しみを加・
下郷本(下).悲しみを加・
   
この部分に関しては、(下)と(山)は同じ表記になっている。

2020.2.16


・版本に起因する誤字

09b.04
(版).橋をわたつて山門に入  [わたつ][つ]が[]に見える 参照 



画像引用元 元禄K  明和I 寛政K

西村本と寛政Kでは、「わたつて」と読めるが、元禄Kと明和Iでは「わたて」とも読める。特に明和Iでは、文字のかすれから「り」と誤読しやすくなっている。
寛政版では、誤読を防ぐためか? 「つ」の文字に工夫の跡が見られる。しかし、寛政版を底本としているはずの半化坊でも「わたりて」と表記されている。
・半化坊 TY W

明和版を底本にしている蕪村の「奥の細道」も「わたて」と表記されている。

(海).橋をわたて山門に入 [同行末]
(京).橋をわたて山門に入 [同行末]
(山).橋をわたて山門に入 [同行末]
(逸).橋をわたて山門に入 [同行末]

11a.01
(版).立より侍つれ [侍つれ][つ]判読難 [侍れ]多数



西村本では「侍つれ」と確実に読める。元禄・明和も「侍つれ」と読めるが「侍へれ」とも読めなくはない。寛政版では「侍つれ」と読むのは難しい。

元禄版系
・侍れ  07元禄写W4 蕉門七書W
・侍へれ 07元禄写S(扶桑残玉集) 07元禄写W2

蕪村の「奥の細道」も全て「侍れ」と表記されている。

(海).立より侍
(京).立より侍
(山).立より侍
(逸).立より侍

18b.02
(版).玉田よこ野つゝしか岡ハあせひ [あせひ][]判読難[]に見える



(自)から(昔)までは、「あせひ」と読めるが、西村本では「せ」が「を」に近い字体が用いられ、それを手本にした元禄版では更に「を」に近い字体になっている。しかし寛政版では元禄版よりも「せ」と読める字体になっている。

引用文献
(自)芭蕉自筆奥の細道  校注:上野洋三  櫻井武次郎  岩波書店
(曽)天理図書館善本叢書〈和書之部 第10巻〉芭蕉紀行文集
(柿)素龍筆 柿衛本 おくのほそ道 岡田利兵衛編 新典社
(早)早大本おくのほそ道 早稲田大学図書館 リンク
(昔)昔安本 校本おくのほそ道 西村真砂子 編著 福武書店 p245-282
(西)西村本 影印 おくのほそ道 櫻井武次郎編 双文社出版
(元)元禄版 おくのほそ道 国文鵜飼 リンク
(寛)寛政版 おくのほそ道 愛知県立大学図書館 リンク 

蕪村の奥の細道では次にようになっている。


(了).玉田よこ野つゝしか岡ハあひ 
(海).玉田よこ野つゝしか岡ハあ
(京).玉田よこ野つゝしか岡ハあせひ
(山).玉田よこ野つゝしか岡ハあせひ
(逸).玉田よこ野つゝしか岡ハあせひ

「あせひ」は「アセビ」のことであるが、「あふひ」は「アオイ(葵)」の歴史的仮名遣いである。
 蕪村は明和版の「あせひ」を「あひ(葵)」と読み、正しい歴史的仮名遣いとして「あひ(葵)」と表記したのではないかと思われる。
 しかし、(了)(海)では「あふひ」であるが、(京)(山)(逸)では「あせひ」と表記されている。その場の思いつきで「アセビ」を「葵」、或いは「葵」を「アセビ」に変更することは不可能なので、蕪村は熟考の末「あふひ」と「あせひ」の2つの表記を併存させた可能性が考えられる。またその際、蕪村は他の本を参照した可能性も考えられる。参照した本が「あふひ」となっていたか、「あせひ」となっていたかは判断できない。このことについては、別の機会に詳しくみてみたいと思う。

22b.01
(版).誠人能道を勤義を守へし [人能][]が[(は)]に似ている



(了).まことに人能道をつとめ義を守へし
(海).誠・・道を勤・・義を守・へし 
(京).まことに道を勤・・義を守へし
(山).誠・・・人道を勤・・義を守・へし
(逸).誠・・・人能道を勤・義を守へし
(七).誠・・道を勤・・義を守る
 
画像引用 (七).蕉門七書(芭蕉翁七書) 国文研

蕪村は明和版の「能」を「盤」と読み違え変体仮名の「盤(は)」と考え、(海)(京)(山)では「ハ」と表記したものと思われる。しかし(了)(逸)では「能」と表記されている。その場の思いつきで「能」を「ハ」に、或いは「ハ」を「能」に変更できるとは思えないので、蕪村は熟考の末「能」と「ハ」の2つの表記を併存させた可能性が考えられる。またその際、蕪村は他の本を参照した可能性も考えられる。

24a.06
(版).風雲の中に旅寐するこそ [とは(者)]に見える



(自)「するこ楚(そ)」 (曽)「するこそ」  (柿)「するこ所(そ)」 (西)「するこそ」

西村本は「するこそ」と読める。「そ」は「者(は)」とも読めるが、「するこは」では文が通じないので、必然的に「するこそ」と読める。元禄版では「こ」と読むのは難しく「と」と読める。そのため、「するとそ」或いは「するとは」と読めてしまう。寛政版では更に「と」に近くなっている。

するとそ


元写W1 元写M 元写IK 寛写FI  半化坊W

するとは


元写S(扶桑残玉集) 元写W2 元写HA 七W(芭蕉翁七書) 七写HR

蕪村では、(了)(京)では「するこ所(そ)」、(山)(逸)では「する古(こ)そ」、そして(海)では「すると者(は)」と表記されている。
蕪村は明和版を基に「するこ所(そ)」と「する古(こ)そ」の2系統の下書きを作り、更に他の本を参照して「すると者(は)」とした可能性がある。或いは、「するとは」と誤読したものを、他の本で「するこそ」と訂正した可能性もある。そのため「所(そ)」「古(こ)」の仮名を用いて「とは」との差別化を図ったのかもしれない。



(了).風雲の中に旅するこそ
(海).風雲の中に旅するとは
(京).風雲の中に旅するこそ
(山).風雲の中に旅するこそ
(逸).風雲の中に旅するこそ

25a.04
(版).仏土成就の大伽監とハなれりける [ける][け」に見える



元禄K 明和W 寛政I

(柿)は「なれりける」であるが、(西)(元K)は「なれりけ」とも読める。村治本は西村本系統の写本と考えられるが、「なれりけ」と表記されている。
(明W)は版木の損傷が多くあるため、あたかも「り」が欠損しているかのようにも見える。
(寛I)は、「る」と読むのは難しく、「り」或いは「ら」と読める。



洗心抄W 元写W1 元写M 半化坊W

(元写W1)(半化坊W)は「なれりける」とも読めるが、「なれりけり」と読むのが自然である。(百家)は「南連季(なれり)」とされている。

蕪村は、(了)では「なれりけ理(り)」、(海)では「なれりけ李(り)」と表記されている。「り」「る」の混同を防ぐために「理」「李」の仮名を用いた可能性が考えられる。(京)(山)(逸)では「なれりける」と表記されている。
蕪村で「なれりけり」と「なれりける」の二通りの表記があるのは、他の本を参考にした可能性が考えられる。



(了).土成就の大伽監とハなれりけ [けり(理)]判読難
(海).土成就の大伽監とハなれりけ [けり(李)]
(京).土成就の大伽監とハなれりける
(山).土成就の大伽監とハなれりける
(逸).土成就の大伽監とハなれりける

30b.05
(版).慈覚大師の開基にて殊清


早大 元禄K 明和I 寛政I 永機W 通解NO

(自)(曽)(柿)(西)(村治)(永機)(通解)は「開基尓(に)して」と表記され、(早大)(昔安)は「 開基丹(に)して」と表記されている。
(元)は(西)の「尓(に)し」を「耳(に)」と誤読したため、(元)(明)(寛)では「開基耳(に)て」と表記されている。

(元)(明)(寛)の版本を底本にしていると思われる写本や版本で、「開基にして」と表記しているのは管見では2種見られた。



元写HA (七)蕉門七書W 七写HR

(七写)は、(七)蕉門七書の写本であるので同種とし。元写HAと合わせて2種とする。
この二種は、版本の「耳(に)て」を「尓(に)して」と誤読して「開基尓(に)して」と表記した可能性が考えられる。

蕪村では、(了)(海)(山)は「開基にて」、(京)(逸)では「開基にして」と表記されている。



(了).慈覚大師の開基に・てことに
(海).慈覚大師の開基に・て殊・・清
(京).慈覚大師の開基にて殊・・清
(山).慈覚大師の開基に・て殊・・清
(逸).慈覚大師の開基にことに

明和版の「耳(に)」は特に難読という程ではないので、蕪村が明和版を基に2種の下書きを作成した時に一方を不注意で「尓(に)して」と誤写した可能性が考えられる。
或いは、他の本を参照して「開基にして」とした可能性が考えられる。

35b.05
(版).三山順礼の句々短冊に書 [明和版][句][]欠損



元禄版では「句々」であるが、明和版では「々」の部分が欠損して判読できない。
管見では元禄版に「々」の欠損のある版は見つからなかったのだが、元禄版の写本の(元写W2) (元写IK)の「句」「句」の表記から、元禄版の晩期には「々」の欠損があったのではないかと推測できる。
 そして明和版でも、(明H) (明HO)では欠損箇所を墨書きで補い「を」「々」と修正している。

元禄ABC 元禄K 元禄R 元禄SI 元禄G1G2 元禄TZ(39/59) 元禄KM
元写W2 元写IK
明和G 明和I 明和R  明和H 明和HO(37/62) 明和W 明和N 元禄T

明和版を底本としている蕪村の奥の細道では(元写IK) (明H)と同じように「句」としている。



(海).三山順礼の句短冊に書
(京).三山順礼の句短冊に書
(山).三山礼の句短冊に書
(逸).三山順の句短冊に書

46b.03
(版).から書捨つ越前の境吉崎 [崎`][崎]元禄重版後の[]が欠落



元禄Kでは、「崎`」であるが元禄G1 元禄C 以降では「`」が欠落している。しかし 寛政I では「`」が復活している。また寛政Iは、青丸部分の「の」のはらいを強調することで「可」であることが明確になっている。明和Hもこれと同じ趣旨で「`」と「の」が墨書きで修正されたのではないかと思われる。

・元禄ABC 元禄K 元禄R 元禄SI 元禄G1G2 元禄TZ(50/59) 元禄KM /・元写IK
・明和G 明和I 明和R  明和H 明和HO(48/62) 明和W 明和N 元禄T /・寛政I

西村本、元禄版後期以前には「`」があるため、青丸の部分が「可」であると推測できるので、「崎」と読めるが、「`」が欠落した元禄後期以降では、「崎」と読むのは難しく「嶋」とも読めてしまう。注*

蕪村の「奥の細道」でも、「`」の欠落した明和版を底本にしているために、(海)(京)(山)では「嶋」と表記されている。しかし(逸)では、「崎」と正しく表記されている。

一度「嶋」と読み込んだものを、「崎」と読み直すことは困難であるうよに思える。(逸)で「崎」と読み直せたのは、他の本を参照したからではないかと思われる。



(海).から書捨つ越前の境・吉
(京).から書捨つ越前の境・吉 [捨ぬ][ぬ]見せ消ち右に[つ]
(山).から書捨つ越前の境・吉
(逸).から書捨つ越前のくに吉崎

管見では蕪村以外で「嶋」と表記している写本は確認できていないが、おそらくそれは、ほとんどの写本は「`」の欠落のない「元禄版」や「寛政版」を底本にしているためではないかと思われる。

注*
「崎」は必ずしも「`」が必要というわけではない。例えば、28a.03「小黒崎」を見ると次のように表記されている。

この「崎」は「`」がなくとも「可」の部分が明確になっているため「崎」と読める。
 
49b.01
(版).かくれて比那か嵩あらハる [嵩]が[]に見える





・(早大) (元写HA)は「嶌」と読める。
・(土芳) (元写W1・M) (七写HR) については、「嵩」と読めるが「嶌」と紛らわしい。
・(永機W) (元写W2)は「嶋」・ (百家交筆) (鼇)は「島」と読める。

AII  早大 元写HA 元写M 七写HR 永機W 元写W2W

蕪村は明和版の「嵩」を「嶌」と誤読し、(京)では「嶌」、(海)(山)では「嶋」と表記したものと思われる。しかし(逸)では「嵩」と表記されている。一度「嶌」と読み込んでしまったものを、「嵩」と読み直すのは困難である。(逸)で「嵩」と読み直せたのは、他の本を参照した可能性が考えられる。


(海).かくれて比那かあらハる
(京).かくれて比那かあらハる
(山).かくれて比那かあらハる
(逸).かくれて比那か嵩あらハる

2020.03.04



・他の本を参照したと思われる例

45b.01
(版).残・・ものゝうらみ隻鳬のわかれて
(了).残・・ものゝうらみ隻鳬のわかれて
(海).残・ものゝうらみ隻鳬のわかれて
(京).のこるものゝうらみ隻鳬のわかれて
(山).残・・ものゝうらみ隻鳬のわかれて [わかれて][か]判読難
(逸).のこるものゝうらみ鳬のわかれて

 

明和版は「隻鳬」であり、(了)(海)(京)(山)も「隻鳬」であるが、(逸)は「雙鳬」と表記されている。「雙鳬」が誤字であるならば、単なる書き間違いと考えることもできるが、西村本系以外では、「雙鳬」の表記がかなり見られる。



(自筆)「隻鴨」 
(曽良)「隻鳬」
(早大)(通解)(柿衛)は「雙鳬」 (昔安)は「雙鳬(テフ)」と表記されている。
(桃鏡)は「双鳬」 (蕉門七書)(七写)では「雙鳬(ソウウ)」と表記されている。

 また、奥細道菅菰抄では「隻鳬ハ雙鳬の誤なるへし」と前漢書を引いて解説をしている。

早大本 (通解)奥細道通解(写)NO  元禄K 明和I
・ (桃鏡)芭蕉翁文集写W 蕉門七書W 七書写本HR 奥細道菅菰抄W
  
以上より、蕪村は明和版を基に「隻鳬」と表記していたものを、(逸)では他の本を参照して「雙鳬」と変えたものと思われる。

2020.03.10

与謝蕪村 奥の細道 上巻
与謝蕪村 奥の細道 下巻
12-13. 14. 15. 16-17. 18.


表紙 000 
1.序章 001 002 003.03
2.旅立 003.03 004 
3.草加 005 006.05
4.室の八島 006.06 007.05
5.仏五左衛門 007.06 008 009.01
6.日光 009.02 010 011 012.03
7.那須 012.04 013 014.06
8.黒羽 014.07 015 016.07
9.雲巌寺 016.08 017 018 19.07
10.殺生石・遊行柳 19.08 020 021.02
11.白河の関 021.03 022.06
12.須賀川 022.07 023 024 025.05
13.あさか山 025.06 026.06
14.しのぶの里 026.06 027.07
15.佐藤庄司が旧跡 027.08 028 029.07
16.飯塚 029.07 030 031.08
17.笠島 031.08 032 033.03
18.武隈 033.04 034 035.01
19.宮城野 035.02 036 037.04
20.壺の碑 037.05 038 039 040.03
21.末の松山 040.04 041 042.04
22.塩竈 042.04 043 044.04
23.松島 044.05 045 046 047 048 049.05
24.石巻 049.06 050 051.07
25.平泉 051.08 052
053 054 055.01
26.尿前の関 055.02 056 057 058 059.01
27.尾花沢 059.02 060.03
28.立石寺 060.04 061
29.最上川 062