2020年7月23日木曜日

多賀城碑と壷碑と日本総国風土記について

はじめに
 江戸時代17世紀に多賀城跡で発見された多賀城碑について、かつて真偽論争がありました。その偽作説とは、「多賀城碑は仙台藩の命を受けた佐久間洞厳 等により作られた偽作である。」というものでした。(現在では、偽作説は否定されている。) この真偽論争の発端は「多賀城碑」が「壷碑(つぼのいしぶみ)」と関連づけられたことにあるのではないかと思われます。多賀城碑は発見当初から壷碑と関連づけられていたのですが、しかしその根拠が曖昧で、「多賀城碑は壷碑ではない。」との批判が生まれ、更に「多賀城碑は偽作である。」というような論になっていったのではないかと思われます。

多賀城碑と壷碑(つぼほいしぶみ)
 そもそも多賀城碑とは何かというと、まず、京都・蝦夷・常陸・下野・靺鞨(まつかつ)から多賀城までの距離が示されています。そして多賀城は神亀元年(724)に大野朝臣東人により築かれ、天平寶字六年(762)に藤原恵美朝臣朝獦により修復されこの碑が立てられた。ということが書かれています。詳しくは 松尾芭蕉の壷碑と多賀城碑 参照
 では、壷碑(つぼのいしぶみ)とは何かというと、坂上田村麻呂が「日本の中央」と弓の筈で書きつけた巨大な石のことです。それは「ツボ」という地名にあったため壷碑(つぼのいしぶみ)と呼ばれるようになったということです。資料#1.参照

 両者はまったく違うもので、共通するのは「陸奥にある昔の碑」ということくらいです。 そこで、「遠碧軒記」などでは、多賀城碑の裏に田村将軍が「日本の中央」と弓の筈で書きつけた。としています。しかし多賀城碑の裏にはそのようなことは書かれていないので、実際に見ればすぐに嘘? であると分かってしまいます。また「壺」というのは地名ではなく、「城内の壺前栽」に立てられたので「壺」と呼ばれるようになった。というような理由付けがなされています。
 松尾芭蕉の奥の細道(完成本)では、多賀城碑と坂上田村麻呂の伝説とは全く関連づけられず、その理由の説明もなく、「壷碑 市川村多賀城有」 としています。現在も多賀城碑は「壺碑」とも呼ばれることがありますが、そのほとんどは奥の細道と同じく、坂上田村麻呂伝説との関連づけはなされていないようです。
 このような中で、多賀城碑の疑念を払拭するために出されたのが、「壼碑考(コンひこう)」であるように思います。この本では「壺碑(つぼのいしぶみ)」の「壺」の由来は「壺前栽」であるということを前提として、「(つぼ)」の字は誤りで「(こん)」が正しい。という論を展開しています。
 しかしこれだけでは説得力が足りません。そこで「日本総国風土記(日本風土記)」が登場します。日本総国風土記は、奈良時代前後に編纂された地誌とされているのですが、17世紀に作られた偽書であるというのが現在では定説になっています。「壼碑考(コンひこう)」では、日本総国風土記を真正の書として、その記述を基に、多賀城碑が壷碑であることの根拠としています。そしてこのことが問題となります。偽書である日本総国風土記に、どうして「多賀城碑 」が載っているのか? しかも多賀城碑が発見されたのと、日本総国風土記が作られたのはほぼ同じ時期です。当然疑いの目が注がれます。「多賀城碑が壷碑であることを裏付けるために偽書を作ったのではないのか?」 更に疑いは深まり、「仙台藩は歌枕を認定するために、多賀城碑と日本総国風土記をセットで偽作したのではないのか?」 というような陰謀論のようなものにまで発展します。おそらく、多賀城碑が壷碑に関連づけられず、日本総国風土記の記述もなければ、多賀城碑偽作説は生まれなかったのではないかと思います。

 以上、多賀城碑と日本総国風土記との関係の概略を見てきましてが、次に「日本総国風土記」について詳しくみてみたいと思います。

壼碑考と佐久間洞厳の日本総国風土記の写本について

壼碑考は、次の5つの章から成っています。
1.東奥州宮城郡市川邑多賀城址壼碑全圖
2.多賀城古城壼碑考
3.碑面考證
4.壼碑審定説
5.題弘斎審定後 容軒源義和(佐久間洞厳) 誌

この中で、2.と4.に「日本総国風土記」の写しがあります。
 
壼碑考(多賀古城壼碑考) 本郷弘斎(平信恕) 享保元年(1716年)

2.多賀城古城壼碑考 01b
日本風土記曰。陸奥國宮城郡。坪碑。有鴻
之池 今廢ス 為故鎮守ノ門碑。恵美朝獦立之。
見雲真人清書也。記異域本邦之行程ヲ。令
旅人ヲシテ為迷コトヲ

4.壼碑審定説 05a, 05b,06a, 06b
風土記残篇百六
 陸奥國宮城郡(以下三百六十有字在焉。) 畧于玆
坪碑 有鴻之池。為故鎮守府門碑。恵美朝
獦立之。見雲真人清書也。記異域東邦之行
。 令旅人ヲシテ不為迷コトヲ。(自此至。一百有四字存焉。)

4.は正確な写しであり、2.は 本郷弘斎が手を加えたもののようです。
「今廢ス」は、「鴻之池という地名は今はない。」というような意味のようです。また「鎮守」は、「鎮守府」の「府」を削っていますが、これは、多賀城碑本文に「鎮守将軍」とあるので、それに合わせて「府」を削ったのかもしれません。
 しかしこれらの2.の変更については、何の説明もなされていないので、読者は2.を「日本総国風土記」の原文と勘違いしてしまいます。そのためこの後の多賀城碑関連で日本風土記が引用される場合、2.が多く用いられます。日本風土記を批判した、藤井貞幹の「好古小録」でも「今廢二字其義通ゼズ」とこれを原文として批判しています。資料#2参照
  次に、壼碑考で用いた、佐久間洞厳の日本総国風土記の写本について見てみたいと思います。

日本総国風土記残編 写:佐久間洞厳 正徳四年(1714年) 宮城県立図書館
p72
日本総國風土記巻之百六 
 陸奥國宮城郡
 -----略
p73
坪碑 有鴻之池為故鎮守府門碑恵美朝  [有]の右に[在]との書き込みあり
獦立之見雲真人清書也記異域東邦之行
程令旅人不為迷塗

この洞厳写本は、田邉希賢の写本からのものです。希賢は京都の儒学者だったのですが、仙台藩に召し抱えられ仙台藩儒となります。佐久間写本の来歴に次のようにあります。

p77
右十有三國風土記残編者八幡社士栢村
某之所蔵也近方求之而摹寫焉時維正德
改元次辛卯臘月二十八日夜揮毫于神州
客舎燈下
             田邉希賢

「八幡社士栢村某之所蔵也」この記述からだけでは、何処の誰の所持する本を希賢が書写したのかわかりませんが、正徳元年12月28日(1712年2月)に書写したということはわかります。つまり、希賢写本が1712年、それを書写した洞厳写本が1714年、これを用いた壼碑考が1716年ということになります。

また、洞厳写本には、新井白石に総国風土記が偽書である可能性を指摘されたという記述があります。

 p04
 白石先生曰看来レハ則此書難信者往々有之盖贋書歟以可疑者多

これは、目次の部分に書かれているので、洞厳が書写した時にはすでにこれが偽書であるとの指摘を受けていたとみることができます。しかしこの本の最後に、洞厳の研究者? と思える人物のメモ書きがあります。

p80
本書は正德四年佐久間洞厳が田辺希賢
の蔵書を借りて書写したもので、壷碑の
筆者を見雲真人と考えるきっかけになった
ものである。日本総國風土記残編は江戸時代
初期までに成った偽書であることは当時新井白
石も指摘した通りである。洞厳も亨保五年前後
に白石からその旨教示を受けている、本書の目録
末尾の書入れはその頃のものであろう。
昭、四九、三         安倍

 このメモからすると、p04は亨保五年(1720)頃に後から書かれたということになります。洞厳と白石との書簡にそのような記述があるのかもしれません。しかし、p04を見た限りでは、後から付け足したようには見えません。

 総国風土記は偽書ということだけでなく、本文に後から手が加えられていたり、偽書と知っていて、真正の書として用いていたのではないのか? など色々な問題があるのですが、「恵美朝獦」の記述について更に不自然な点があります。次に総国風土記の13本を比較して見てみます。

a.日本惣国風土記 4巻 国会図書館
安政5(1853) 藤原正方写
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2566395/18
 
b.日本惣国風土記残冊 全 国会図書館 
嘉慶二年二月上旬(1388年) 左羽林郎藤原元隆
寶永六丑年三月下臻(1709年)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2539600/66

c.日本惣國風土記 
天正二年三月下旬(1574年) 権少外記中原忠胤 
高知県立高知城歴史博物館 山内文庫 ヤ291‐72
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100089512/viewer/49

d.残編風土記 早稲田大学 上田 百樹 
嘉慶二年乙丑七月下旬(1388年) 左羽林郎藤原元隆 (嘉慶二年は戊辰が正しい)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_03163/i04_03163_0223/i04_03163_0223_0002/i04_03163_0223_0002_p0050.jpg
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_03163/i04_03163_0223/i04_03163_0223_0002/i04_03163_0223_0002_p0049.jpg
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i04/i04_03163_0223/index.html

e.日本惣国風土記 第二冊 早稲田大学
嘉慶二年三月(1388年) 左羽林郎元隆
右以師家之蔵本書寫之 多田正仲
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_01494/ru03_01494_0002/ru03_01494_0002_p0048.jpg
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru03/ru03_01494/index.html

f.日本總國風土記 大和文華館   
嘉慶三年三月中旬(1389年) 藤原元隆
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100134947/viewer/118

g.風土記 奈良女子大学学術情報センター
安永八年巳亥季春(1779年) 荒木田神主経雅
安永八年巳亥十一月廿四日 本居宣長
安永九年庚子三月廿九日(1780年) 正五位度會神主正均
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100258230/viewer/54 

h.日本惣国風土記 全 早稲田大学 
寛文十年庚戌七月六日(1670年) 大納言源通村
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_03132/ru03_03132_p0042.jpg
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru03/ru03_03132/index.html

i.日本惣國風土記 茨城県立歴史館
天保九戊戌年九月十二日(1838年) 三村山人信
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100224244/viewer/154 

j.日本総国風土記残編 宮城県立図書館
享保七年壬寅之夏(1722年)  羽林中郎将吉村(仙台藩五代藩主)

s.日本総国風土記残編 巻之百六
嘉慶二年二月上旬 左中将藤原元隆
正徳改元次辛卯臘月二十八日(1712年2月5日頃) 田邉希賢
正徳四年甲年中秋八日(1714年9月18日頃) 五城楼下 源義和(佐久洞厳) 
仙台叢書. 第18(翻刻)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185931/107

t.壼碑考(多賀古城壼碑考) 本郷弘斎(平信恕) 享保元年(1716年)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2535767/4
奥羽觀蹟聞老誌  佐久間洞厳  初出:享保4(1719年) 
上記の壼碑考と同じ記述 (送り仮名など異なる部分もある)

y.奥州宮城郡市川村多賀城址壼碑圖 天明元年(1781年)
http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/ags/1-2-3-020b.jpg

1.
a.坪碑有・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
b.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
c.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
d.坪有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之 [][石+里]
e.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
f.坪碑有・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
g.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
h.坪碑有・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
i.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美朝獦立之
j.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美朝獦立之
s.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美朝獦立之
t.坪碑有鴻之池今廢・・・ 為故鎮守門碑恵美朝獦立之
y.坪碑鴻之池鴻之池名今癈為故鎮守府門碑恵美朝獦立之
2.
a.見雲人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷塗
b.見雲真人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷塗
c.見雲真人清書也記異域邦之行程令旅人不為迷塗
d.見雲真人清書也記異之行程令旅人不為迷塗
e.見雲真人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷塗
f.見雲人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷塗
g.見雲真人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷塗 [域][城]上書き訂正か?
h.見雲真人清書也記異本邦之行程令旅人不為迷塗
i.見雲真人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷
j.見雲真人清書也記異域邦之行程令旅人不為迷塗
s.見雲真人清書也記異域邦之行程令旅人不為迷塗
t.見雲真人清書也記異域邦之行程令旅人不為迷塗
y.見雲真人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷

どちらが正しいかは別として、上記の「鴻と嶋」「池と地」「道と真」「城と域」「東と本」「邦と郡」これらは似た文字の写し間違いとみることができます。しかし「押勝と朝獦」は文字の類似はみられません。(押勝は朝獦の父親で藤原朝臣仲麻呂のことです。)
 朝獦と表記されている、i.j.s.t.y. のうち、j.は伊達從五位藏本で、田邉写本 或いは s.(佐久間写本)からの写本と考えられます。y.(多賀城壼碑案内図)は、t.(壼碑考)を基に作成されたと考えられます。つまり、j.s.t.y.は佐久間洞厳関係の写本ということになります。そして、i.を見てみると、「令旅人不為迷」となっています。これはy.と同じ表記になっています。i.が書写された年代などからすると、i.はy.を参考にこの部分を書写した可能性が考えられます。また、押勝と表記されているa.~g.は、「押勝」の右に「朝獦」と誤りを訂正する書き込みがあります。

恵美押勝と恵美朝獦について
上記からすると、総国風土記ではもともとは「押勝」と表記していたのが、佐久間写本以降に「朝獦」に変更された疑いがあります。では、どうしてそうなったのか理由を考えてみたいと思います。
 多賀城碑の文面については以前詳しく見ましたが、多賀城碑を作ったのは「藤原恵美朝臣朝獦」です。しかし「獦」の文字は判読困難で、佐久洞厳の精巧な拓本により初めて判読できるようになったと考えられます。それ以前の「一目玉鉾」などでは、「藤原恵美朝臣」とされています。藤原恵美朝臣はいわゆるファミリーネームのようなもので、父親の押勝と息子の朝獦との区別がつきません。そこで総国風土記の作者は、有名な「押勝」を充ててしまったのかもしれません。これは、多賀城碑の文字が判読されていない内はよかったのですが、佐久間洞厳の拓本によりその文字が「朝獦」と判読されると、文面との齟齬によりジレンマが生じます。それは、碑の文面が正しいのなら、総国風土記が偽物であり、総国風土記の文面が正しいのなら碑は偽物ということになってしまうということです。そこで、田邉希賢 或いは 佐久間洞厳は、拓本に合わせて「押勝」を「朝獦」に改変したのではないかと考えられるのです。

 本郷弘斎や佐久間洞厳は、壼碑考で、[「今廢ス」の挿入。「鎮守府」を「鎮守」に変更。] をで明示的に行いましたが、最大の問題である「朝獦」への変更については写本そのものに変更を加えたということになります。この改変はかなり効果的で、本文と比べた場合、どこまでが改変か容易には見分けられません。先に見たa.~g.では、「押勝」を「朝獦」の誤りと訂正しています。訂正した者は、「本来は朝獦と記述されていたものが押勝と誤記されている。」と考えたということになります。つまり改変した佐久間写本がスタンダードとなっているのです。これは、y.(多賀城址壼碑圖)を大量に発行し、改変した総国風土記を世の中に広めたことも大きく貢献しているかもしれません。

芭蕉自筆 奥の細道の貼紙前の文章について
今回、総国風土記について調べてみて、佐久間洞厳の拓本以前には、「藤原恵美朝臣朝獦」の「獦」の文字は判読されてなかった可能性が極めて高いことが改めてわかりました。(下記一覧参照) しかし先に見たように松尾芭蕉の奥の細道の自筆本の貼紙の下には、「朝獦」を「朝狩」と解読した記述がありました。芭蕉が亡くなったのは、元禄7年(1697)で、佐久間洞巌が拓本を取ったのは元禄十二年(1699)ですから、少なくとも2年以上前に芭蕉は「朝狩」と解読していたということになります。もちろん、続日本紀と多賀城碑を照合して「朝狩」を割り出すことは可能かもしれませんが、それは続日本紀の研究者でもなければ無理だと思います。この観点からすると、奥の細道の芭蕉自筆本は、壼碑考の出版された1716年以降に作られた可能性が高いように思われます。つまりそれは芭蕉の自筆本ではないことを意味します。 松尾芭蕉の壷碑と多賀城碑について 参照

芭蕉自筆 奥の細道 上野 洋三  櫻井 武次郎   岩波書店
本文篇 (貼紙の前の文章) p87
市川村多賀の城は往昔境守の
舘舎也つほの石碑このところに
あり凡竪七尺あまり横五尺
計にみゆ苔を穿て文字か
すかなり四維国界の道の数
里をきさむ造栄[営]鎮守苻
将軍陸奥守朝狩と有おなしく
安察使何某修造を加えて神亀
宝字六年霜月と印ス聖武
皇帝の御時にあたれり

藤原恵美朝臣朝獦 表記一覧
(松) 松島風土記 仙台市博物館調査研究報告 第15号
(遠) 遠碧軒記 下之三 著:黒川道祐 延宝3年(1675) 編:難波宗建 宝暦6年(1756)
日本随筆大成第一期 10 関根正直・和田英松・田辺勝哉監修 吉川弘文館 p147
(眺) 松島眺望集 大淀三千風  天和2年(1682)
(玉) 一目玉鉾 井原西鶴 元禄二年 (1689)
(日) 曽良旅日記 天理図書館善本叢書 和書之部 第10巻
(蕉) 壷碑写し おくのほそ道図譜 朝日新聞社編
(奥前) 芭蕉自筆 奥の細道 貼紙訂正前 岩波書店
(奥) 芭蕉自筆 奥の細道  岩波書店
(州) 奥州道中記 元禄7年(1694) 相愛大学図書館
(鵆) 陸奥鵆  桃隣 元禄10(1697) 早稲田大学図書館
(国) 国花万葉記  菊本賀保 元禄10(1697) 巻11 54a 54b 早稲田大学図書館
(続) 続俗説弁 井沢長秀 宝永5年(1708) (公益俗説辯)
(和) 和漢三才圖會 寺島良安 正德二年(1712年)
   巻第六十五図会 地部 陸奥國 国会図書館
(壼) 壼碑考(多賀古城壼碑考) 本郷弘斎(平信恕) 享保元年(1716年)

(松)寛文13年(1673)    藤原恵美朝臣朝
(遠)延宝3年(1675)    藤原朝臣恵美
()天和2年(1682)    藤原恵美朝臣朝𤢥 [犭萬]
()元禄2年(1689)    藤原恵美朝臣
(日)元禄4年(1691)以降  藤原恵美朝臣朝
(蕉)元禄4年(1691)以降  藤原恵美朝臣
(奥前)元禄4年(1691)以降 陸奥守朝狩
(奥)元禄4年(1691)以降  恵美朝臣𤢥    [犭萬]
()元禄7年(1694)    藤原恵美朝臣
()元禄10年(1697)    藤原恵美朝臣朝𤢥 [犭萬]
()元禄10年(1697)    藤原の恵美朝臣
()宝永5年(1708)    藤原恵美朝臣 [藤原恵美朝臣修造(カクル)也]
()正德2年(1712)    藤原恵美朝臣 藤原恵美朝臣朝[亻葛]
()享保元年(1716)    藤原恵美朝臣朝獦

この他、新井白石が著した「同文通考」正徳年間(1711~1716) の写本A. B.には、「藤原恵美朝臣朝獦」との記述があります。しかし、宝暦10年(1760)の刊本には「藤原恵美朝臣獦」と「朝」の字が欠落しています。更に別な写本C. には、「藤原恵美朝臣朝勝」とあります。([勝]の字の上に[臈]の字の書き込みあります)。
新井白石も同文通考の時点では、「獦」を判読できていなかった可能性が高いように思えます。

同文通考 A.早稲田大学図書館 B.お茶の水女子大学図書館 C.祐徳稲荷神社

おわりに
 今回の記事は前回の「松尾芭蕉の壷碑と多賀城碑について」の註釈として書いたのですが、総国風土記が偽書であるばかりか、それを真正の書という建前の元に、更に改変するというような複雑怪奇なことが行われていて、註釈では収まらないので、新しく項目を立てました。
 私見を言えば、壼碑考で、「壷(ツボ)」は「壼(コン)」の誤りであるとする論を展開しているのは、論点をズラすのによく使われる手であるように思えます。「ツボ」という地名については論ぜずに、そもそも「ツボ」という文字は誤りで「コン」が正しいとすることで、議論の矛先を変えようとしているように思えるのです。
 また、仙台叢書の鈴木雨香の「日本総国風土記残篇の後に書す」についても、不自然な点があります。雨香は「抑此書の我か仙臺に顕はれたることをいへは、仙臺藩儒田邉希賢か、延寶中仙臺藩に召し抱へられし際、京都より持ち下りたるを始めとなす、」と書いていますが、先に見た通りこの写本の来歴には、希賢が書写したのは「正徳元年12月28日(1712年2月)」と書かれていますので、延寶(1680年頃)とは少なくとも30年以上の開きがあります。
 更に、雨香は、藤井貞幹の「好古小録」の「今廢二字其義通ゼズ」との批判に対して、「今廢の二字は池の廢されたるをいへるものにして亦不都合なかるべし」と反論していますが、「今廢」の二字はこの写本にはありません。この二字は先に見た通り、「壼碑考」と「奥羽觀蹟聞老誌」で付け足されたものです。つまり雨香は、この二字が壼碑考で付け足されたことも否定しているということになります。そしてこの反論は、y.(多賀城壼碑案内図)の「鴻之池名今癈」を敷衍しているもので、つまりy.の「鴻之池名今癈」は「今廢」の説明のために更に改変されたものであると言えます。このような、偽書を真正の書という建前で、反論や事実に合わせて改変して行くというような手法は、偽書の常套手段なのかもしれません。

資料
#1.
袖中抄  顕昭 12世紀成立 慶安4(1651)版 19.28  19.29 早稲田大学図書館
いしふミ
  いしふミやけふのせはぬのはつ/\に
  あひみてもなをあかぬけさかな
 顕彰いういしふミとハ 陸奥のをくにつもの
 いしふミあり日本のはてといへり但田村
 将軍征夷之時弓のはすにて石の面に
 日本の中央のよしをかきつけたれハ石文(イシフミ)
 といふといへり信家侍従の申しハ石の面
 なかさ四五丈許なるに文ゑりつけたり
 そのところをハつほと云 云々 それをつも
 とはいふ也私云みちのくにハ東のはてと
 思へとゑその嶋ハおほくて千嶋ともいふ
 ハ陸地をいハんに日本の中央にても侍に
 こそ

#2.
好古小録 寛政七年乙卯九月(1795) 藤井貞幹 国会図書館
 上巻 一七 陸奥國多賀城碑
壼碑考スル陸奥國風土記残篇疑クハ後人偽作ナラム
イマ其文中解スベカラザルシテ識者訂正
○陸奥風土記残篇云陸奥國宮城郡坪碑在鴻之池今廢
(鎮守府門碑宮城郡坪碑トハベカラズ 今廢二字其義通ゼズ)
為故鎮守門碑
(故鎮守故字其義通ゼズ門碑フベシ)
恵美朝獦立之見雲真人清書也
(清書二字至拙疑フベシ)
記異域東邦之行程
(異域東邦之行程其意通ゼズ)
令旅人不為迷塗
(國界ルノ里数スノミニテハザラシムト云大簡ナラズヤ以テ塗ニ迷ハザル旅人アラハ一奇ベシ)

2020.7.31

2020年7月4日土曜日

松尾芭蕉の壷碑と多賀城碑について

松尾芭蕉の壷碑(つぼのいしぶみ)についての著作は、現在三種ほど残っています。一つは、真蹟の「壷碑写し」。二つ目が自筆の「おくの細道」。そして3つ目は自筆の「おくの細道」の貼紙の下に書かれていた訂正前の壷碑についての文章です。
今回はこれらの「壷碑」について詳しく見てみたいと思います。

まず、実際の拓本を見てみたいと思います。

Wikipedia (拓) 多賀城碑文・安井息軒『読書余滴』より


       去京一千五百里
   多賀城 去蝦夷国界一百廾里
       去常陸国界四百十ニ里
       去下野国界二百七十四里
       去靺鞨国界三千里
西  此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎮守将
   軍從四位上勲四等大野朝臣東人之所置
   也天平寶字六年歳次壬寅参議東海東山
   節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎮守
   将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也
       天平寶字六年十二月一日
-----------------------------------

次に芭蕉の壷碑図関連の5本を見てみます。

(眺) 松島眺望集 大淀三千風  天和2年(1682年)北海道大学図書館

壷碑 良玉 おもひこそ千島のおくをへだつともなどかよハさぬつぼのいしふミ 法橋顕昭

此処塩釜仙臺の中間市川村といふ國司屋敷の跡にぬのめ
地の赤瓦あり都のつとにし侍る硯屏などに用る奇也 [硯屏(けんびょう)]

碑之圖
高六尺三寸
横三尺一寸
厚一尺
      去京一千五百里
      去蝦夷国界一百廿里
  多賀城 去常陸国界四百十二里
      去下野国界二百七十四里
      去靺鞨国界三千里
西 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守將
  軍從四位上勲四等大野朝臣東人之処里 [処里]
  也天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山
  節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎮守
  將軍藤原恵美朝臣朝修造也
     天平寶字六年十二月一日

いしぶみや青苔一氣つぼ世界 阿波 直忠
 つほのいしふみ和久一流の泉也 山カタ 心素
是ハ藤原ノ恵美 宝字六年ノ曛  河シマ 大益
検地渉南北ニ踏殫壷ノ石文
 押へた蔦つぼのいしふミ 韵ふたぎ みち風
-----------------------------------

(玉) 一目玉鉾 井原西鶴 元禄二年 (1689年) 早稲田大学図書館

○壷石文
 此石高サ六尺横三尺厚一尺五寸面向 [面向(めんかう)][う]判読難
 に立抑多賀城ハ神亀元年甲
 子按察使鎮守府将軍大野朝 [鎮守府の将軍]
 臣東人所筑也其後天平宝字 [築く所也]
 六年十二月東海道節度使兼
 鎮守府将軍藤原恵美朝臣此城  [鎮守府の将軍] [藤原の恵美朝臣]
 内に立置て此碑といへり
 田村将軍鉾を持て此碑のうちに
 爰を日本の中央のよし傳へり又
 壷といふ所の名にハあらず前栽に
 立られしゆへなり
陸奥のいはて忍ふをゑそしらぬ書尽てよ壷の石文
みちのくの奥ゆかしくもおもはゆるつほの石文外のはま風
-----------------------------------

(曽) 曽良旅日記 天理図書館善本叢書 和書之部 第10巻

    去京一千五百里
    去蝦国界一百廿里
多賀城 去常陸国界四百十ニ里
    去下野国界弐百七十四里
    去靺鞨国界三千里
西 此域神亀元年歳次甲子按
  察使兼鎮守府將軍従四位
  上勲四等大野朝臣東人之所○
  ○也天平寶字六年歳次
  壬寅参議東海東山節度
  使従四位上仁部省卿兼按察
  使鎮守府將軍藤原恵美
  朝臣朝修造也
   天平宝字六年十二月一日
石ノ高地ヨリ上六尺五寸餘幅廣所
三尺五六寸セハキ所三尺
 -----------------------------------

(蕉)  芭蕉の真蹟の「壷碑写し」 おくのほそ道図譜 朝日新聞社編 

      去 京  一千五里
  多賀城 去 蝦夷国界一百二十里
      去 常陸国界四百十ニ里
      去 下野国界二百七十四里
      去 靺鞨国界三千里
 西 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守苻将
   軍従四位上勲四等大野朝臣東人所呈←此字不明    
   也天平寶字六年歳次壬寅参議東海東山
   節度使従四位上仁部省卿兼按察使
   鎮守苻将軍藤原恵美朝臣修造也
    天平寶字六年十二月一日
    
     右壷碑仙臺松嶋之間市川村ニアリ
     所之者ハ竪石ト云々
     
        奥州行脚ノ時元禄二年五月八日
        穿碑苔写之高七尺横四尺厚
        一尺或一尺餘    芭蕉
-----------------------------------

(奥) 芭蕉自筆 奥の細道  岩波書店

  壷碑 市川村多賀城ニ有

つほの石ふみハ高サ六尺餘横三尺計歟苔を
穿て文字幽也四維国界之数里を印ス此城
神亀元年按察使鎮守苻将軍大野
朝臣東人之所里也天平宝字六年
参議東海東山節度使同将軍 恵
美朝臣修造而十二月一日と有
聖武皇帝の御時にあたれりむかし
-----------------------------------

これら6種の「此城神亀元年・・・」以後の部分を比較したいと思います。
拓本を基に、脱字 誤字 で表記します。

(拓) Wikipedia 多賀城碑文・安井息軒『読書余滴』より
(眺) 松島眺望集 大淀三千風  天和2年(1682年)
(玉) 一目玉鉾 井原西鶴 元禄二年 (1689年)
(日) 曽良旅日記 天理図書館善本叢書 和書之部 第10巻
(蕉) 壷碑写し おくのほそ道図譜 朝日新聞社編
(奥) 芭蕉自筆 奥の細道  岩波書店

1.
(拓).此城・・・神龜元年歳次甲子按察使兼鎮守・将
(眺).此城・・・神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守・將
(玉).抑多賀城ハ神亀元年・・甲子按察使鎮守
(日).此域・・・神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守
(蕉).此城・・・神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守
(奥).此城・・・神亀元年・・・・按察使鎮守
2.
(拓).軍從四位上勲四等大野朝臣東人之所置 [所置也(置く所也)]
(眺).軍從四位上勲四等大野朝臣東人之処
(玉).軍・・・・・・・大野朝臣東人 [所筑也(築く所也)]
(日).軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所○○
(蕉).軍従四位上勲四等大野朝臣東人←此字不明    
(奥).軍・・・・・・・大野朝臣東人之所
3.
(拓).也・・天平寶字六年・・・歳次壬寅参議東海東山
(眺).也・・天平宝字六年・・・歳次壬寅参議東海東山
(玉).也其後天平宝字六年十二月・・・・・・東海道・
(日).也・・天平寶字六年・・・歳次壬寅参議東海東山
(蕉).也・・天平寶字六年・・・歳次壬寅参議東海東山
(奥).也・・天平宝字六年・・・・・・・参議東海東山
4.
(拓).節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎮守・
(眺).節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎮守・
(玉).節度使・・・・・・・・・・・鎮守
(日).節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
(蕉).節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
(奥).節度使・・・・・・・・・・・・・
5.
(拓).将軍藤原恵美朝臣朝獦修造也 [犭葛]
(眺).將軍藤原恵美朝臣朝𤢥修造也 [犭萬]
(玉).将軍藤原恵美朝臣・・・・・
(日).將軍藤原恵美朝臣朝修造也
(蕉).将軍藤原恵美朝臣・・ 修造也
(奥).将軍・・恵美朝臣𤢥修造 [犭萬]
6.
(拓).天平寶字六年十二月一日
(眺).天平寶字六年十二月一日
(玉).・・・・・・・・・・・此城内に立置て此碑といへり
(日).天平宝字六年十二月一日
(蕉).天平寶字六年十二月一日
(奥).・・・・・・十二月一日と有聖武皇帝の御時にあたれり


(奥)は(玉)にかなり近いようです。それは両者以外の(拓)(眺)(日)(蕉)が、碑文をそのまま正確に写そうとしたものであるのに対し、(玉)(奥)は碑文の内容を要約して説明したものであるということに関係があるように思います。そこでまず、一目玉鉾について詳しく見てみたいと思います。

○壷石文(つほのいしふみ)
此石、高サ六尺、横三尺、厚ミ一尺五寸、面向(めんかう)に立。抑々多賀城は・・・大野朝臣東人の築く所也。其後、天平宝字六年十二月・・・・藤原恵美朝臣、此城内に立置て此碑といへり。

 この文面は、「壷の石文」の概要の説明という体裁で書かれています。「抑々多賀城は・・・」というような導入は、作者である井原西鶴が、多賀城についての薀蓄をこれから語り始める。ということを示すものであり、「・・・大野朝臣東人の築く所也。」というのは、石文の文面の写しではなく、西鶴自身の説明であると読めてしまいます。
 また、「其後、天平宝字六年十二月・・・藤原恵美朝臣、此城内に立置て此碑といへり。」というのも、「何時? 誰が? 石文を立てたか?」を西鶴が説明しているという体裁になっています。これまでの文章は、実際は石文の要約が書かれているのですが、読者は西鶴による石文の説明と考えるため、石文に何が書かれているのかは、不明のままになっています。しかし、西鶴はそれを狙っていたのかもしれません。それは次の文章でわかります。
田村将軍、鉾を持て此碑のうちに爰を日本の中央のよし傳へり。又、壷といふ所の名にはあらず、前栽に立られしゆへなり。
本来、壷石文は、坂上田村麻呂が「日本の中央」と書いた大きな石のことですから、当然この石文には「日本の中央」と書かれているはずなのです。そして西鶴はそう書いているわけです。そして、「壷といふ所の名にはあらず、前栽に立られしゆへなり。」と、多賀城にあることを肯定しています。
 
 この観点から奥の細道をみてみると、奥の細道も「壷碑(つぼのいしぶみ)の説明」か「壷碑の写し」か? 曖昧であることに気づきます。「・・・苔を穿て文字幽也。四維国界之数里を印ス。」この部分は芭蕉自身の説明ですが、「此城・・・大野朝臣東人之所里也。」は壷碑の写しという解釈が一般的です。しかしそれは、翻刻者や解説者が多賀城碑についての知識を利用して区別しているに過ぎません。そういった知識がなければ、特に改行されているわけでもないので、ここからは壷碑の写しである。というような区別はつきません。
 また、「節度使将軍」の「」は壷碑にはない文字ですが、一般にこれは誤字とはされていません。それは、「鎮守苻将軍を兼ねている。」という意味で使うために芭蕉は壷碑にない文字を故意に用いたと解釈できるからなのだと思います。ところが、「恵美朝臣修造十二月一日と有」は「也」の誤りとされています。しかし、(蕉)では、「修造也」と誤っていないわけですから、(奥)では文字を間違えたとするよりも、本来「天平宝字六年十二月一日」であるものを「十二月一日」と省略して、先にある「天平宝字六年」と繋がっているということを無理なく示すために、「也」で終わらせずに、「而(して)」と繋いだと見るのが自然であるように思えます。注1 (玉)では「其後天平宝字六年十二月」と「十二月」を先に出して碑文の日付を省略したのに対応します。

 しかし奥の細道と一目玉鉾には明らかな違いがあります。それは、奥の細道では、「四維国界之数里を印ス」とこの碑の本来の目的が説明されているのに対して、一目玉鉾ではこの肝心の内容が欠落しています。そして一目玉鉾では「田村将軍の日本の中央」について書かれていますが、奥の細道にはこの説明はありません。芭蕉は実際にこの碑を見ているわけですから、「日本の中央」と書かれていないのは知ってたのです。
  以上、奥の細道と一目玉鉾との関係性を見てきましたが、次の二個所は松島眺望集の関連がみられます。

2.
(拓)「所置」
(玉)「所筑」 
(眺)「処」 
(奥)「所
5.
(拓)「朝獦」 [犭葛]
(玉)「・・」 
(眺)「朝𤢥」 [犭萬]
(奥)「𤢥」 [犭萬]

 おそらく芭蕉は、一目玉鉾を引用しながら、多賀城碑の正確な情報を得るために、松島眺望集を参照したのではないか思います。

 次に、 自筆の奥の細道の貼紙の下に書かれていた訂正前の壷碑について見てみたいと思います。

芭蕉自筆奥の細道 本文篇 p87 
上野 洋三  櫻井 武次郎   岩波書店

市川村多賀の城は往昔境守の
舘舎也つほの石碑このところに
あり凡竪七尺あまり横五尺
計にみゆ苔を穿て文字か
すかなり四維国界の道の数
里をきさむ造栄[営]鎮守苻
将軍陸奥守朝狩と有おなしく
安察使何某修造を加えて神亀
宝字六年霜月と印ス聖武
皇帝の御時にあたれり

 この貼紙される前に書かれた短い文章には多くの問題が含まれています。まず、碑の大きさですが、「竪七尺あまり・横五尺計」とありますが、訂正後は「高サ六尺餘・横三尺計歟」となります。これは一目玉鉾と同じサイズですから、一目玉鉾をもとに訂正したことを示唆します。

 次に、「 造栄[営]鎮守苻将軍陸奥守朝狩と有」とありますが、「鎮守府将軍」は松島眺望集などにも見られますが、「陸奥守朝狩」は他には見当たりません。「朝狩」は「藤原朝臣朝獦」のことで、続日本紀には「朝狩」「朝猟」「朝獦」の三つの表記が見られます。また、朝猟が「陸奥守」に任じられたという記述も続日本紀にあります。注2
 碑文の「朝獦」という文字が判読されるのは、仙台藩の佐久間洞巌が元禄十二年(1699)に正確な拓本を取ってからであり、一般に知られるようになったのは、この拓本の成果をもとに、本郷弘斎が享保元年(1716)に「壼碑考(多賀古城壼碑考)」を出版してからのことではないかと思われます。つまり芭蕉は、碑文からではなく、続日本紀などの資料から「朝狩」と判読していたということになります。続日本紀は明暦三年(1657)に版本が出版されていますので、芭蕉が目にした可能性はあります。とすると、芭蕉は「藤原恵美朝臣朝𤢥」を「藤原恵美朝臣朝獦」であると知っていたということになります。ところが、訂正後の奥の細道では、「藤原恵美朝臣𤢥」と「朝」が抜けています。これは不注意による脱字とは思えません。不注意による脱字ならばその後の「曽良本」などで訂正できたはずです。もしかすると、芭蕉は「朝」の抜けた碑文も参照したのかもしれません。例えば、奥州道中記では「藤原恵美朝臣修造也」とされています。また、続俗説弁では「藤原恵美朝臣修造也(藤原恵美朝臣修造(カクル)也)」とされています。

 ここまでの事柄については不審はあっても、それなりに筋が通っているのですが、しかし多賀城を「造営」したのが朝狩というのは明らかに誤りですし、「おなしく安察使何某修造を加えて神亀宝字六年霜月と印ス」というのも誤りです。「神亀宝字」にいたっては年号そのものが存在しません。正しくは、「造営」は大野朝臣東人であり、「何某」は「藤原恵朝臣朝狩」であり、年号は「天平宝字六年臘月(12月)」ということになります。
 一体これをどうみればよいのでしょうか? 芭蕉の記憶の混乱による誤りとする見方もできるかもしれませんが、しかしそうすると「聖武皇帝の御時にあたれり」という文が問題になります。これは神亀の天皇が誰かを知っていなければ書けません。おそらくこれも、続日本紀を調べて書いたのではないかと思われます。
 もしかすると芭蕉はこの石碑を調べるにつれ、これがいわゆる壷碑ではないことを確信したのかもしれません。壷碑は坂上田村麻呂が弓の筈で「日本の中央」と書いた大石であるはずなのに、この碑に書かれていたのは、「四維国界の道の数里」であり、作ったのも藤原恵美朝臣朝狩で年代も違っています。そこで芭蕉は、故意に文の前後を入れ替えたり、年号を折衷したりして、事実をぼかそうとしたのかもしれません。芭蕉は雲巌寺を雲岸寺としたり、こういった遊びを他でもかなり行っています。しかし、「石碑の裏には日本の中央と書かれている。」というようなあからさまな嘘は書かなかったのは、芭蕉の見識といえるかもしれません。
 それにしても、貼紙前の文章は腑に落ちない点が多すぎます。これらは「壼碑考」と同等の知識がなければ(誤りも含めて)書けないように思えます。芭蕉はそのような知識をどこから仕入れたのでしょうか? 仮に「壼碑考」以後に書かれたとするならば、芭蕉直筆本は偽書ということになってしまいます。 
多賀城碑と壷碑と日本総国風土記について 参照

注1:「修造而」を「修造而(して)」とするのは、奥細道菅菰抄 参照

注2:
続日本紀の朝猟の「陸奥守」の記述
続日本紀巻第二十 起天平宝字元年正月盡二年七月
○甲寅 (天平宝字元年七月十八日)
從五位下藤原朝臣朝猟陸奥
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563122/45
※この時は、「藤原朝臣朝猟」という名でその後に「藤原恵美朝臣朝猟」となります。
続日本紀巻第廿一 起天平宝字二年八月盡十二月
甲子 (天平宝字元年閏八月十九日)
朝猟の父、藤原朝臣仲麻呂は「恵美」の二字を加え、藤原恵美朝臣押勝となります。これにより一家は「恵美朝臣」と名乗ります。

続日本紀の「陸奥國按察使兼鎮守將軍」「朝獦授從四位」の記述。碑には「使從四位」とあります。
続日本紀巻第廿二 起天平寶字三年正月盡四年六月
○丙寅 (天平宝字四年一月四日)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563123/44
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563123/45 

続日本紀の「藤原恵美朝臣朝狩東海道節度使」の記述
続日本紀巻第廿三 起天平寶字四年七月盡五年十二月
○丁酉 (天平宝字五年十一月十七日)

続日本紀での「朝狩」の表記
続日本紀巻第廿二 起天平宝字三年正月盡四年六月
○六月庚戌 (天平宝字三年六月十六日)
藤原恵美朝臣朝狩ニハ正五位下
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563123/32

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追記
井原西鶴の一目玉鉾は黒川道祐の遠碧軒記を参考にしたようです。次にこれらの系譜を見てみたいと思います。

日本随筆大成第一期 10 関根正直・和田英松・田辺勝哉監修 吉川弘文館 p147
遠碧軒記 下之三 
著:黒川道祐 元和9年(1623)-元禄4年(1691) 編:難波宗建 宝暦6年(1756)
 
○奥州多賀城の古跡に壷の碑今もあり。石の高さ六尺、横三尺、厚さ一尺半、西向にたてたり。此の多賀城は神亀元年甲子按察使兼鎮守府將軍大野朝臣東人之所築也。其後天平宝字六年十二月、東海道節度使鎮守府将軍藤原朝臣恵美於此城内立此碑云々。田村利仁将軍弓の鉾を以て、此の碑の裏に爰を日本の中央のよしかゝれしと申伝ふれど、今は慥かならず。その上爰を中央とも云不審。又壷と云処を名のやうに伝ふるも不詳。爰にて人々尋侍しに、只城内の壷前栽に立られし石なりと心得べしと云て、近き義にて面白し。

国花万葉記  菊本賀保 元禄10(1697) 巻11 54a 54b 早稲田大学図書館

壷の石碑 當國の名碑也此石高サ六尺幅三 [名碑(メイヒ)]
    尺厚一尺五寸有ル碑石也昔此所多賀城立 [多賀(タガノ)城]
    神龜元年甲子按察使鎮守府将軍大 [按察使(アセツシ)鎮守府(チンシユフノ)将軍]
    野朝臣東人の築く処也其後天平宝
    字六年十二月東海道節度使兼鎮
    守府将軍藤原の恵美朝臣此城に此
    碑石を立置給へり城門ハ朽れ共此碑 [朽(クチ)]
    残りて後来にとゞまる往古の形見盡
    せざる名残なり又其後田村将軍鎮守
    府として鉾を持て此碑の面に爰を日 [持]判読難
    本中央と書付侍へり昔城中の前栽
    壷の内に立し碑なる故壷の石碑とは
    云傳ふとかや ▲大僧正慈圓頼朝公へ思ふ程
    の事文にてハ申つくしがたしと申つかハされける
    返事に頼朝
陸奥のいハでしのぶハえぞしらぬ書つくしてよ壷の石ふミ

和漢三才圖會 寺島良安 正德二年(1712年)
巻第六十五図会 地部 陸奥國 国会図書館

壷石碑   多賀ニ在リ
 天-平寶字六-年藤原ノ恵-美ノ朝-臣立ル所ナリ高サ六-尺 幅三-尺厚サ
 尺-半 
   昔シ此ノ處ニ城有リ多-賀ノ城ト名ク大野東-人之ヲ築ク後ニ恵-美ノ朝 [東人(アツマント)]
   臣其舊-跡ヲ慕石-碑ヲ建其銘于左ニ記ス又曰ク田村將-軍
   鉾ヲ用テ日-本中央ノ四-字ヲ書ク 云-云
   △按田-村-丸東夷ヲ征-伐ノ時
   来テ碑乎見ルカ蓋シ蝦-夷カ島モ日本ノ屬國ヲ以 此處中央為ルモ亦宜哉

        去ル事京ヲ  一-千五-百里
        去ル事蝦-夷國界ヲ  一百二十里
   多賀城  去ル事常陸ノ國界ヲ 四-百十二里
        去ル事下野ノ國界ヲ 二-百七十四里
        去ル事靺-鞨ノ國界ヲ 三千里
西   此城ハ神龜元年歳ノ次甲子按察使兼鎮守將- [次(ヤトリ)] [按察使(アゼシ)]
    軍從-四-位-上勲-四等大野朝臣東人ノ所置 [所置][置所ナリ]
    也天-平寶字六-年歳ノ次リ壬-寅参-議東海東山
    節度-使從-四-位-上仁部少-卿兼按-察-使鎮守-
    將-軍藤原恵-美朝-臣朝-亻葛修-造也
     天平宝字六年十二月一日
       陸奥のいはでしのぶハえぞしらぬ書つくしてよつほの石ふミ 頼朝

(遠) 遠碧軒記 下之三 著:黒川道祐 編:難波宗建 
(玉) 一目玉鉾 井原西鶴 元禄二年 (1689年)
(国) 国花万葉記  菊本賀保 元禄10(1697) 巻11 54a 54b
(和) 和漢三才圖會 寺島良安 正德二年(1712年) 巻第六十五図会 地部 陸奥國
(奥) 芭蕉自筆 奥の細道  岩波書店

1.
(遠).○奥州多賀城の古跡に壷の碑今もあり
(玉).○壷石文
(国).・壷の石碑 當國の名碑也
(和).・壷石碑   多賀ニ在リ 天平寶字六年藤原ノ恵-美ノ朝臣立ル所ナリ
(奥).・壷碑 市川村多賀城ニ有
2.
(遠).・・・・・石の高さ六尺・横三尺・・厚さ一尺半・西向にたてたり
(玉).・・・・此石・高サ六尺・横三尺・・厚・一尺五寸向に立・・・
(国).・・・・此石・高サ六尺・幅三尺・・厚・一尺五寸有ル碑石也
(和).・・・・・・・高サ六尺・幅三尺・・厚サ・尺半・ 
(奥).つほの石ふみハ高サ六尺餘横三尺計歟・・・・・・
3.
(遠).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(玉).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(国).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(和).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(奥).苔を穿て文字幽也四維国界之数里を印ス此城
4.
(遠).・・此の・・多賀城は神亀元年甲子按察使兼鎮守府將軍大野朝臣東人之所築也
(玉).・・抑・・・多賀城ハ神亀元年甲子按察使・鎮守府将軍大野朝臣東人・所筑也
(国).昔・此・所・多賀城立神龜元年甲子按察使・鎮守府将軍大野朝臣東人の築く処也
(和).昔シ此ノ處ニ城有リ多賀ノ城ト名ク・・・・・・・・・大野・・東人之ヲ築ク
(奥).・・此・・・・・城・神亀元年・・按察使・鎮守苻将軍大野朝臣東人之所里也
5.
(遠).其後天平宝字六年十二月・・東海道・節度使・鎮守府将軍藤原・朝臣・恵美
(玉).其後天平宝字六年十二月・・東海道・節度使兼鎮守府将軍藤原・恵美・朝臣
(国).其後天平宝字六年十二月・・東海道・節度使兼鎮守府将軍藤原の恵美・朝臣
(和).後ニ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・恵美ノ朝臣
(奥).・・天平宝字六年・・・参議東海東山節度使同・・・将軍・・・恵美・朝臣
6.
(遠).於此城内・立此碑云々
(玉).・此城内に立置て此碑といへり
(国).・此城・に此碑石を立置給へり 城門ハ朽れ共此碑残りて後来にとゞまる往古の形見盡せざる名残なり
(和).其舊跡ヲ慕石碑ヲ建其銘于左ニ記ス
(奥).修造而十二月一日と有聖武皇帝の御時にあたれり
7.
(遠).・・・田村利仁将軍・・・・・・弓の鉾を以て
(玉).・・・田村・・将軍・・・・・・・・鉾を持て
(国).又其後田村・・将軍鎮守府として・・鉾を持て
(和).又曰ク田村・・將軍・・・・・・・・鉾ヲ用テ
(奥).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
8.
(遠).此の碑の裏・に爰を日本の中央のよしかゝれしと申伝ふれど
(玉).此・碑のうちに爰を日本の中央のよし傳へり
(国).此・碑の面・に爰を日本・中央と書付侍へり
(和).・・・・・・・・・日本・中央ノ四字ヲ書ク云云
(奥).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
9.
(遠).今は慥かならずその上爰を中央とも云不審又壷と云処を名のやうに伝ふるも不詳
(玉).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・又壷といふ所の名にハあらず
(国).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(和).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(奥).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
10.
(遠).爰にて人々尋侍しに只城内の壷前栽に立られし石なりと心得べしと云て近き義にて面白し
(玉).・・・・・・・・・・・・・・前栽に立れしゆへなり
(国).昔城中の・・・・・・・・・・前栽壷の内に立し碑なる故壷の石碑とは云傳ふとかや
(和).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(奥).・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2行の(遠)では「西向」と表記されているものが、(玉)では「面向」と表記されています。(玉)は「西」を「面」と誤読した可能性が考えられます。

9行以下(遠)では、田村将軍の日本中央について、かなり懐疑的に書かれていますが、(玉)では、(遠)の懐疑的な部分を取り除き、事実として書き直しています。そして(奥)では7行以下の田村将軍の部分には触れられていません。

2020.07.17 更新

2020年5月21日木曜日

与謝蕪村 奥の細道画巻(逸翁美術館蔵)と鼇頭奥之細道と多賀城址壼碑図について

先に「鼇頭奥之細道(ごうとうおくのほそみち)」と与謝蕪村の奥の細道画巻とを比較検討し、(鼇)の挿絵に関しては、(海)と(京)が用いられている可能性が高いと結論付けました。
鼇頭奥之細道と与謝蕪村の奥の細道の画図について

しかし、(鼇)の「壺の碑」については他の絵とは別に考えないといけないかもしれません。そこでまず、(逸)と類似する「壷の碑図」関する一連の解説の文章について見てみたいと思います。

与謝蕪村奥の細道逸翁美術館蔵(逸)

日本風土記曰陸奥國宮城郡坪碑在鴻之池
為故鎮守府門碑恵美朝獦立之見雲真人
清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷途
 みちのくのいはてしのふハえそしらぬ書つくしてよつほの碑 右大将 源頼朝
 陸奥ハおくゆかしくそおもほゆるつほのいしふミそとのはま風 西行
多賀城事始見續日本記聖武皇帝天平九年
夏四月記
神亀元年甲子廼聖武帝元年至安永八年巳亥
千七十五年
天平寶字六年壬寅廼廢帝四年至安永八年 *[寅廼]墨で消えている
巳亥千三十七年
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鼇頭奥之細道(鼇) 上ノ十九 (p42)

01.日本風土記曰陸奥國宮城郡坪碑在鴻之池為故鎮守府
02.門碑恵美朝獦立之見雲真人清書也記異城本邦之
03.行程令旅人不為迷途
04.   ミちのくのいはてしのふえそしらぬ
05.    書つくしてよつほのいしふみ 右大將頼朝
06.   みちのくハおくゆかしくそおもほゆる
07.    つほのいしふミそとのはまかせ  西行法師
08.多賀城事始見続日本記聖武皇帝天平九年夏
09.四月記神龜元年甲子迺聖武帝元年至嘉永二年
10.巳酉千百四十四年
11.天平寶字六年壬寅迺廃帝四年至嘉永二年巳酉
12.千百六年
 --------------------------

両者は大変似ており、同一と言ってもよいと思います。違う点は、(逸)ではこの部分を書いたのが「安永八年」であったので、神亀元年から「千七十五年」、天平宝字からは「千三十七年」となっているのに対して、(鼇)でこの部分は「嘉永二年」に書かれたので神亀元年から「千百四十四年」、天平宝字からは「千百六年」となっています。その他、(逸)では「西行」となっている部分が(鼇)では「西行法師」となっています。また、(鼇)では頼朝の和歌を「いはてしのふ」と誤っています。

では、この文章はどこから採られているかというと、それは「奥州宮城郡市川村多賀城址壷碑図」からではないかと思います。

多賀城壷の碑図 安永四年版(1775) 天明元年版(1781)  文化七年版(1810)  別版W 別版T1 別版T2
早稲田大学図書館 俳諧番附その他摺物 山口県文書館 多賀城碑

次に天明元年版を見てみたいた思います。
 
奥州宮城郡市川村多賀城址壼碑圖
   石高六尺五分同幅三尺四寸


碑の図


        石内四方卦長四尺五分同幅二尺六寸三分
   右碑文行字數長短併字畫共ニ如碑ノ文字ノ不改書寫ス之
    
  日本風土記ニ曰陸奥國宮城郡坪碑ハ在鴻之池ニ [鴻之
  池ノ名今癈] 為故鎮守府ノ門碑恵美ノ朝獦立ツ之ヲ見雲真人
    清書也記異域本邦之行程ヲ令ム旅人ヲ不フ為迷ヲ途ニ
  新古今雑下
   みちのくのいハてしのふハえしらぬ書つくしてよ壷の碑 前右大将頼朝
     陸奥ハおくゆかしくそおもほゆる坪の碑そとのはまかせ 西行法師
    ○多賀城ノ事始ノ見續日本紀聖武帝天平九年夏四月ノ記
    ○神亀元年甲子廼チ聖武帝ノ元年至天明元年辛丑千七十七年
    ○天平寶字六年壬寅廼チ廢帝四年至天明元年辛丑千三十九年
     天明元年辛丑潤五月吉辰

注:レ点や一ニ点は省略しました
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この壷碑図について、山口県文書館に次のようにあります。
 
山口町の有力商人で町役人も務めた安部四郎右衛門は,1805(文化2) 年東北地方を旅行中にこの碑を見物したことを旅日記に記しており,その時に入手したと考えられます(安部家文書1414「奥州宮城郡市川村多賀城址壺碑図( 木版刷)」)。
引用 山口文書館 多賀城碑 

この案内図は天明元年(1781)発行で、安倍四郎右衛門が東北旅行をした文化2年(1805)とは24年の開きがあります。20年以上同じ版木で刷ったにしては文字が鮮明です。被せ彫りとしても発行年を改定しないのは不自然です。もしかすると旅行をする前に資料として入手していたのかもしれません。それにしても、山口の豪商が多賀城の碑を見物し、その案内図まで持っていたというのは驚くべきことです。

蕪村もこれに類似する「多賀城址壺碑図」を写したと考えられます。もしかすると、蕪村も東北行脚をした時に手に入れたのかもしれません。

(逸).奥の細道図巻 逸翁美術館蔵 豊書房 


ここで注目したいのが、碑の右側に書かれた。「石高六尺五分  幅三尺四寸」というサイズの表示です。これは多賀城址壼碑図 の「石高六尺五分同幅三尺四寸」と同じです。この碑のサイズは、その記録者により微妙な違いがあり、高さと幅の両方が一致している例は、管見では、(逸)と、安永版・天明版「多賀城址壼碑図」及び東奥紀行の三種のみです。これらはすべて同根の資料を用いていると考えられます。
この観点からも、蕪村は「多賀城址壼碑図」を写したと言えると思います。しかし、蕪村が写したのは、安永版でも天明版ではありません。天明版は(逸)の製作時期よりも後の版なので当然違うのですが、安永版もこのあと見ますが、年代表記の誤記の違いより蕪村が用いた可能性はほとんどありません。

また、蕪村は碑のサイズやそれにまつわる解説などは、「多賀城址壼碑図」を写したのは間違いないと思うのですが、碑の図そのものは、別な図を参照している可能性があります。それは蕪村が、(逸)よりも先に製作した、(海)や(京)などで用いた図を参考にしている可能性があるからです。

それでは次に、この一連の文章の大もととなった資料を見てみたいと思います。

壼碑考(多賀古城壼碑考) 本郷弘斎(平信恕) 享保元年(1716年)
国会図書館 壼碑考


東奥州宮城郡市川邑多賀城址壼碑全圖
  自碑首至地上六尺五分石圍九尺六寸八分石基九尺三寸七分石體三稜

 図

至下四尺五分     濶二尺六寸四分

ページ 01b

日本風土記ニ曰。陸奥ノ國宮城ノ郡。坪ノ碑。有鴻ノ
之池[今廃ス]為故ノ鎮守ノ門碑。恵美ノ朝獦立之。
見雲ノ真人清書也。記異域本邦ノ之行程ヲ。令ム
旅人不為迷塗。

                    前右大将頼朝
新古今
みちのくのいはてしのふハえそしらぬ書つくしてよ壼の碑

ページ 02b
                     西行法師
陸奥ハおくゆかしくそおもほゆる坪の碑そとの濱風

ページ 03b
碑面考證
多賀城
 在市川ノ邑ノ山畔二。此ノ城ノ事始テ見續日本紀
 武帝天平九年夏四月ノ記二。
神亀元年甲子
 廼聖武帝元年。至亨保元年丙申ニ。千十ニ
 年。
天平寶字六年壬寅
 廼廢帝四年。至至亨保元年ニ。九百七十四年

注:レ点や一ニ点は省略しました。
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この本は、他に比べ 出版時期が早く、しかも内容も他よりも充実しています。更にこの本が親本である決定的な証拠があります。この本は亨保元年に書かれており、神亀元年から「1012年」、天平寶字六年から「974年」となっているのですが、実はこれが間違っているのです。
神亀元年は西暦724年、亨保元年は西暦1716年 なので、1716-724=992年となり、表記されている1012年とは20年ほどズレがあります。
また、天平寶字六年は西暦762年なので、1716-762=954年となり、これまた表記されている974年と20年のズレがあります。この点についてまとめてみると次のようになりました。

記号:
(壼).壼碑考(多賀古城壼碑考) 東奥州宮城郡市川邑多賀城址壼碑全圖 [壼(コン)]
(亨).亨保版 奥州仙臺宮城郡市川村多賀城址壼碑圖 [壼(コン)]
(安).安永版 奥州宮城郡市川村多賀城壺碑圖 [壺(ツボ)]
(逸).逸翁美術館所蔵 奥の細道図巻
(天).天明版 奥州宮城郡市川村多賀城址壼碑圖 [壼(コン)]
(東).東奥紀行
(文).文化版 奥州宮城郡市川邨多賀城壼碑圖 [壼(コン)]
(鼇).鼇頭奥之細道
            神亀元年 724年    天平寶字六年 762年
(壼).亨保元年 1716年 [1012年(992) ] [974年 (954) ]
(亨).亨保14年 1729年  [1025年(1005)] [987年(967)]
(安).安永四年 1775年 [1071年(1051)] [1015年(1013)]
(逸).安永八年 1779年 [1075年(1055)] [1037年(1017)]
(天).天明元年 1781年 [1077年(1057)] [1039年(1019)]
(東).天明八年 1788年 [////////////] [1048年(1026)]
(文).文化七年 1810年 [1107年(1086)] [1051年(1048)]
(鼇).嘉永二年 1849年 [1144年(1125)] [1106年(1087)]

( )内が正しい年数になります。こうして見てみると、安永版の1015年と文化版の1051年は比較的正確で2年3年のズレなのですが、その他は凡そ20年のズレになっています。これは、最初の壼碑考で計算を間違えたため、それを基準としたものは皆20年ズレてしまったと考えるほかありません。
西暦を用いない時代では、こういう計算は干支を用いて行ったのだと思いますが、それでもかなり煩雑になるので、神亀や天平寶字の最初からの計算をせずに、亨保での間違いを踏襲してしまったのだと思います。1015年は、天平寶字から計算したものと思われます。2年くらいは誤差の範囲と言ってもいいかもしれません。先に言及しましたが、(逸)が(安)を参照していない根拠はここにあります。(逸)はどちらも20年のズレがあるので、(安)とは別な版を参照していることになります。そして(文)は(安)と同系統の版を基にしているということが言えると思います。
 (東)には、p12a 「自天平寶字六年至天明八年凡千四十八年」とあります。この本は、 長久保赤水によるものですが、標注を長久保中行 が行っています。そしてその標註の部分に、多賀城壼碑図からの借用がちりばめられています。しかし本文では南部壺碑説が唱えられているため、碑名も「多賀城修造碑圖」と変えられています。
  この他、壼碑考の影響を受けてない、奥州道中記には、「天平宝字六年より元禄七年まて九百三十三年に成」との記述があります。元禄七年は1694年なので、「1694-762=932」となり933年という記述とほぼ一致します。
 また、(鼇)の完成したのは安政五年(1858) ですから、この部分を書いた嘉永二年から9年も経っていたということになります。

 ところで、源頼朝と西行法師の和歌についてなのですが、壼碑考には他にも多くの和歌が掲載されているのに、どうしてこの二つの和歌が選ばれたのか? という疑問があります。特に西行の和歌は多くの和歌の中盤に載っているものです。これを蕪村が選んだというのならば、西行と奥の細道の関係から妥当な選択と言えると思うのですが、蕪村よりも先に、多賀城址壺碑図で西行の和歌が選ばれています。これはもしかすると、井原西鶴の「一目玉鉾」の影響が考えられるかもしれません。一目玉鉾では、壷碑の説明の最後にこの二つの和歌が掲載されているのです。一目玉鉾は元禄二年(1689)に出版され、享保三年(1718)にも再版されていますから、多賀城址壺碑図の編者も目にしている可能性はかなり高いと思います。また、芭蕉の壷碑の記述にも大きな影響を与えているように思えます。このことについては後ほど詳しく見てみたいと思います。

全体的に見て、(鼇)は(逸)と大変似ており、(逸)を参考にしたものと思われます。例えば、「聖武皇帝」という記述は、(逸)と(鼇)だけで他は「聖武帝」と書かれています。 [聖武皇帝という記述は、奥の細道の本文にも「聖武皇帝の御時に當れり」とあるので、(逸)はこれを踏まえて故意に変更したか、或いは、本文の記述につられて誤った可能性があります。参照 (京)17.20-21 ]
また、(逸)と(鼇)以外では[鴻之池ノ名今癈]というような記述がありますが、(逸)と(鼇)では省略されています。これらの点から、(鼇)は(逸)を写した可能性がかなり高いと思われます。しかし碑の図そのものに関しては、(逸)を参照せずに、他の資料を参照した可能性があります。(鼇)は一連の碑の解説文を文字通り「壺の碑の解説」として書いています。だからこそ、年数の数え方も、蕪村の年代を基準にせずに、自分が書いた嘉永二年を基準にしているのではないかと思います。蕪村が碑を芸術的な対象物としたのとは対照的に、奥の細道の資料としたのです。また、(鼇)は壼碑考も参考にしている形跡もみられます。

 「壷の碑」の「壷」の字について、壼碑考では、という漢字は用いていません。という漢字を用いています。壼碑考では最初に両者の違いについて言及しています。


壼碑考(多賀古城壼碑考)

名寄歌枕。作壼石文或作碑。風土記作
坪碑。壼。苦本切。音悃。爾雅宮中衖。
郭璞曰。衖。閣間道。詩大雅。其類維何。室家之
壼。又居也。俗作壼碑非也。壼。洪孤切。
音胡。酒器。坪。蒲明切。音平。地平處。

意訳
名寄・歌枕などでは、「壼石文」或るいは「碑」と書く。風土記では「坪碑」と書く。「壼」は、反切では、苦 本 で小韻は悃(コン)である。
中国の爾雅という辞典よると、壼は宮中の衖のことである。郭璞という人が言うには、衖は門から宮廷へと続く道のことである。詩経の大雅に「其の類(よき)こと維れ何ぞ。室家の壼(みち)である」とある。壼は居でもある。俗に と書くがそれは誤りである。「壺」は、反切では、洪 孤で小韻は胡(コ)である。 壺は酒の器のことである。「坪」は、反切では、蒲 明 小韻は平(ヘイ)である。地の平なところである。
----------------

(鼇)の頭注には次のようにあります。

鼇頭奥之細道
壼碑
○碑ハ仙府ヨリ千賀の浦への往来の傍ラ市川村ニ有
多賀城の前栽の壷の内ニ在し故つほの碑と云
壼の字宮中の道也 壷音古也 酒甕也 混すへからす
----------------

また、奥細道菅菰抄にも次のような記述があります。

奥細道菅菰抄
○按ルニ庭中ヲツボト云ハ本トノ字ナルベシ
 爾雅ニ宮中ノ衖之ヲ壼ト謂フト是ナリ瓶ノ属ヒノツボハ
 壺 ニテ音ヱ古(コ)ナリ然ニ今門内前栽ナドヲツボノ
内ト称ズルハト楷書ノ字形紛ラハ
 シキヨリシテ終井ニ其和訓マデヲ誤ルナリ

注:一ニ点は書き下しました
-------------

改めて蕪村と鼇頭奥之細道の壺の碑の絵をみてみると、蕪村の壺の碑図は芸術性を主張した絵画であるのに対して、鼇頭奥之細道の壺の碑は、資料としての客観的事実をも伝えようとする図であるように見えます。両者を仲介した「多賀城址壼碑図」は、「壼碑考」を一般向けに簡略化したもので、観光客相手に大量に発行されていたのだと思います。そしてそれは山口の豪農にまで届く程の盛況を博していたということになります。

2020.05.22
2020.07.30

2020年2月24日月曜日

与謝蕪村 奥の細道画巻の底本について Part.2

 与謝蕪村 奥の細道画巻の底本について Part.1 からの続きです。

(版).元禄版おくのほそ道: 奥の細道 : 素竜本 野村宗朔 編 大倉広文堂 (明和版系)をベースに、国文研鵜飼 02元禄K などを参照
(了).了川による模写 柿衛文庫蔵  画巻
安永丁酉秋八月 (安永六年八月) (1777年9月2日~9月30日) 蕪村の奥付の日付 
天保癸巳夏五月 (天保四年五月) (1833年6月~7月) 了川による模写の日付
注:参考文献に全文の影印がないため抜けている部分は空白
(海).海の見える杜美術館蔵 (旧 王舍城美術寶物館) 画巻 全一巻  
安永七年六月 (1778年6月25日~7月23日)
(京).京都国立博物館蔵 (旧 平山亮太郎 蔵) (旧 北村太三郎 蔵) 画巻 全二巻 
安永七年十一月 (1778年12月19日~1779年1月17日)
(山).山形美術館蔵 屏風 一帖 六曲 
安永八年秋 (1779年)
(逸).逸翁美術館蔵 画巻  全二巻
安永八年十月 (1779年11月8日~12月7日)

・色による分類
黄色:漢字→かな 
灰色:かな→漢字 
橙色:送り仮名 
水色:異字体 
緑色:別字 
赤色:誤字・脱字・衍字


・誤読と他の本を参考にしたと思われる訂正について

03a.03
(版).呉天に白髪の恨・・を重・ぬといへ共・
(海).呉天に白髮のうらミを重ぬといへとも 
(京).呉天に白髪の恨・・をかさぬといへとも [同行末]
(山).呉天に白髪の恨・・を重・ぬといへとも [同行末]
(逸).呉天に白髪の恨・・を重ぬといへとも



奥付の日付からすると、一連の作品は、(了)→(海)→(京)→(山)→(逸)の順で制作されているのだが、上記の文字の誤読と訂正の観点からみてみると、蕪村は明和版の「重ぬ」を「かさぬ」と読み、(海)(逸)で「重ぬ」と表記したと思われる。その後他の本を参考にしてか?注1 (京)では「かさぬ」とし、(海)(逸)で「ね」を消して「重ぬ」と訂正したと考えられる。(山)の「重ぬ」は、「かさねぬ」の訂正前に書かれたか訂正後に書かれたかは判断できない。

(山)の「重ぬ」は、明和版の「重ぬ」を「かさねぬ」と読んだが、そのまま「重ぬ」と表記している可能性と、「かさねぬ」を「かさぬ」に訂正した後に制作され「重ぬ」と表記した可能性の二つが考えられる。

注1:(柿)は、「素龍筆 柿衛本 おくのほそ道」 岡田利兵衛 編 新典社 
「かさぬ」と仮名で書かれている。蕪村が柿衛本を直接参照したとは思えないが、「かさぬ」と仮名でかかれた本を参照した可能性が考えられる。
以上のことから、この部分に関しては、(京)よりも先に(海)(逸)が書かれたとみることができる。

12b.04
(版).脇㐧三とつゝけて三巻となしぬ
(了).脇㐧三とつけて三巻となしぬ [同文末]
(海).脇㐧三とつゝけて三巻となしぬ [同文末]
(京).脇㐧三とつけて三巻となしぬ [同文末]
(山).脇㐧三とゝケて三巻となしぬ [ツゝケて][て][]消し右に[ゝケ]添える
(逸).脇㐧三とつゝけて三巻となしぬ



奥付の順番を考慮せず、文字の誤読と訂正の観点からみてみると、蕪村は、明和版の「つゝけて」を「つけて」と読み、(了)(京)で「つけて」、(山)で「付て」と表記し、その後他の本を参考にしてか? (海)(逸)では「つゝけて」とし、(山)では「」を消して「ツゝケて」に訂正したと考えられる。
以上のことから、この部分に関しては、(海)(逸)よりも先に(了)(京)(山)が書かれたとみることができる。

この2つの事例からすると、蕪村は一連の「奥の細道」の制作を同時並行的に行った可能性がある。

2020.1.29


・単純な誤字脱字について 
下記は誤字脱字を同じ箇所でしているものをピックアップしたものである。

04a.06
(版).卅日日光山の梺に泊るあるしの
(海).卅日日光山の梺に泊るあるし
(京).卅日日光山の梺に泊るあるし
(山).卅日日光山の梺に泊るあるしの
(逸).卅日日光山の梺に泊るあるしの
07a.07
(版).のとゝまる所・・にて馬を返し給へと
(了).のとゝまるところにて・・返し給へと
(海).のとゝまるところにて馬を返し給へと
(京).のとゝまる所・・にて・・返し給へと
(山).のとゝまるところにて馬を返し給へと
(逸).のとゝまるところにて馬を返し給へと
07b.03
(版).やさしかりけれは
(了).やさし・・けれは
(海).やさしかりけれは
(京).やさし・・けれは
(山).やさし・・けれ
(逸).やさし・・けれは
10b.06
(版).此柳みせはやなと折/\にの給ひ
(海).此柳みせはやなと折/\の給ひ
(京).此柳せはやなと折/\にの給ひ
(山).此柳せはやなと折/\にの給ひ
(逸).此柳せはやなと折/\の給ひ
13b.01
(版).花かつミとは云そと人々に尋侍れ
(海).花かつミとは云そと人々に尋侍れ
(京).花かつ云そと人に尋侍れ
(山).花かつ云そと人に尋侍れ
(逸).花かつとは云そと人々に尋
22b.06
(版).一の好風にして凡洞庭西湖を恥す
(了).一の好風にして凡洞庭西湖恥す
(海).一の好風にして凡洞庭西湖を恥す
(京).一の好風にして凡洞庭西湖を恥す [同行末]
(山).一の好風にして凡洞庭西湖を恥す
(逸).一の好風にして凡洞庭西湖恥す
25a.01
(版).入唐帰朝の後・開山す其・後・に
(了).入唐帰朝の後・開山す其・のち
(海).入唐帰朝のゝち開山すそのゝち
(京).入唐帰朝の後・開山す其・後・に
(山).入唐帰朝の後・開山す其・後・
(逸).入唐帰朝のゝち開山すそのゝち
25b.05
(版).ひ・人家地をあらそひて竃・・の
(海).ひ人家地をあらそひ竃・・の [同行末]
(京).ひ・人家地をあらそひて竃・・の [同行末]
(山).ひ人家地をあらそひ竃・・の
(逸).ひ・人家地をあらそひてかまと
29b.08
(版).わかれぬ跡・に聞てさへ胸・とゝろく
(了).わかれぬ跡・に聞てさへ胸・とゝろく
(海).わかれぬ跡・に聞てさへ胸・とゝろく
(京).わかれぬあとに聞てさへ胸・とゝろく
(山).わかれぬあとに聞さへ胸・とゝろく
(逸).わかれぬあとに聞さへむねとゝろく
52a.03
(版).筆をとらせて寺に残・す
(海).筆とらせて寺にのこ
(京).筆をとらせて寺にのこす [同行末]
(山).筆とらせて寺にのこす [文字空け]
(逸).筆をとらせて寺にのこす [同行末]

上記の誤字脱字は、不注意による読み飛ばしや写し間違いと考えられ、それを同じ箇所でしているということになる。このようなことが偶然に起こるとは考えられない。
この観点からすると、一連の作品には2系統の手本があったと考えられないだろうか? 蕪村は「奥の細道」を制作するに当たり、まず「明和版」を基に下書きを2本書きそれらを手本にしのである。つまりその手本に誤字脱字があったのである。このように仮定するならば、同じ箇所での誤字脱字が生じたことの説明となる。
(下書きについては、色々なパターンが考えられる)

2020.2.2


・単純な誤字の訂正について

28b.06-28b.07
(版).大山を隔・・て道さたかならされハ道しるへの人を
(了).大山を隔・・て道さたかなら道しるへの人を
(海).大山を隔・・て道さたかならされハ道しるへの人を [ならす][]の右に[さ]
(京).大山を隔・・て道さたかならされハ道しるへの人を
(山).大山を隔・・て道さたかならされ道しるへの人を [ならす][]消し右に[さ]
(逸).大山をへたて道さたかならされ道しるへの人を



この例では、下書きの段階で「ならされは」を「なられは」と単純に誤記し、それを清書してから、或いは清書の最中に誤りに気付き訂正したのではないかと思われる。
この観点からすると、この部分では、(了)(海)(山)で同じ手本が用いられ、(京)(逸)では別の手本が用いられたということになる。
 ただ、柿衛本(柿)と昔安本(昔)では次のように表記されている。

大山を隔て道さたかなら道しるへの人を

(柿)(昔)では、「ならされは」ではなく「なら」と表記されているのである。(了)(海)(山)の「なられは」もこれとなんらかの関係があるのかもしれない。そうであるならば様相もまた変わってくる。

2020.2.7


・送り仮名の補いによる訂正について

40a.01
(版).物・語・・するをきけハ越後の国・新
(了).物・かたりするをきけ越後の国・新
(海).ものかたりするをきけハ越後の国・新
(京).物・かたりするをハ越後の國・新 [聞ハ][聞ハ][]挿入
(山).物・かたりするをきけハ越後のくに
(逸).物・かたりするを越後の国・新 



この例では、下書きには「きけは」と「聞は」の二つの系統があったと考えられ、(了)(海)(山)は「きけは」とし、(京)(逸)は「聞は」としたと考えられる。そして(京)では「ケ」を補って「聞ケハ」と訂正をしたように見える。
 一方で、蕪村はその時の感性で「きけは」を「聞は」に変更した可能性も考えられる。しかし(京)の「ケ」の挿入による訂正からすると、「聞は」となっている下書きを基に清書し、その後「聞ケば」に訂正した可能性が高いように思われる。
 また、蕪村は明和版の「きけは」の仮名表記を「聞は」と漢字表記にしているところから、他の本を参考にした可能性も考えられる。例えば、昔安本では次のような表記となっている。

(昔).物語するを聞ハ越後の国新
 
2020.2.13

38a.07
(版).さに悲しみをくはえて地勢魂
(了).さに悲しみをくはえて地勢魂
(海).さに悲しみをくはえて地勢魂
(京).さに悲し加・・て地勢魂
(山).さに悲しみを加・て地勢魂
(逸).さに悲しみをくはえて地勢魂



この例では、下書きには「くはえて」と「加へて」の二つの系統があったと考えられ、(了)(海)(逸)では「くはえて」とし、(京)では「加て」(山)では「加へて」としたと考えられる。
 一方で、蕪村はその時の感性で「くはえて」を「加へて」に変更した可能性も考えられるが、 「くはえて」「加て」の「へ」表記の違いが生じていることから、他の本を参考にした別系統の下書きがあった可能性が高いように思われる。

自筆本(自).かなしをくは
曽良本(曽).かなしをくは
昔安本(昔).かなしをくは

   (版).悲しみをくはえて
   (山).悲しみを加・
下郷本(下).悲しみを加・
   
この部分に関しては、(下)と(山)は同じ表記になっている。

2020.2.16


・版本に起因する誤字

09b.04
(版).橋をわたつて山門に入  [わたつ][つ]が[]に見える 参照 



画像引用元 元禄K  明和I 寛政K

西村本と寛政Kでは、「わたつて」と読めるが、元禄Kと明和Iでは「わたて」とも読める。特に明和Iでは、文字のかすれから「り」と誤読しやすくなっている。
寛政版では、誤読を防ぐためか? 「つ」の文字に工夫の跡が見られる。しかし、寛政版を底本としているはずの半化坊でも「わたりて」と表記されている。
・半化坊 TY W

明和版を底本にしている蕪村の「奥の細道」も「わたて」と表記されている。

(海).橋をわたて山門に入 [同行末]
(京).橋をわたて山門に入 [同行末]
(山).橋をわたて山門に入 [同行末]
(逸).橋をわたて山門に入 [同行末]

11a.01
(版).立より侍つれ [侍つれ][つ]判読難 [侍れ]多数



西村本では「侍つれ」と確実に読める。元禄・明和も「侍つれ」と読めるが「侍へれ」とも読めなくはない。寛政版では「侍つれ」と読むのは難しい。

元禄版系
・侍れ  07元禄写W4 蕉門七書W
・侍へれ 07元禄写S(扶桑残玉集) 07元禄写W2

蕪村の「奥の細道」も全て「侍れ」と表記されている。

(海).立より侍
(京).立より侍
(山).立より侍
(逸).立より侍

18b.02
(版).玉田よこ野つゝしか岡ハあせひ [あせひ][]判読難[]に見える



(自)から(昔)までは、「あせひ」と読めるが、西村本では「せ」が「を」に近い字体が用いられ、それを手本にした元禄版では更に「を」に近い字体になっている。しかし寛政版では元禄版よりも「せ」と読める字体になっている。

引用文献
(自)芭蕉自筆奥の細道  校注:上野洋三  櫻井武次郎  岩波書店
(曽)天理図書館善本叢書〈和書之部 第10巻〉芭蕉紀行文集
(柿)素龍筆 柿衛本 おくのほそ道 岡田利兵衛編 新典社
(早)早大本おくのほそ道 早稲田大学図書館 リンク
(昔)昔安本 校本おくのほそ道 西村真砂子 編著 福武書店 p245-282
(西)西村本 影印 おくのほそ道 櫻井武次郎編 双文社出版
(元)元禄版 おくのほそ道 国文鵜飼 リンク
(寛)寛政版 おくのほそ道 愛知県立大学図書館 リンク 

蕪村の奥の細道では次にようになっている。


(了).玉田よこ野つゝしか岡ハあひ 
(海).玉田よこ野つゝしか岡ハあ
(京).玉田よこ野つゝしか岡ハあせひ
(山).玉田よこ野つゝしか岡ハあせひ
(逸).玉田よこ野つゝしか岡ハあせひ

「あせひ」は「アセビ」のことであるが、「あふひ」は「アオイ(葵)」の歴史的仮名遣いである。
 蕪村は明和版の「あせひ」を「あひ(葵)」と読み、正しい歴史的仮名遣いとして「あひ(葵)」と表記したのではないかと思われる。
 しかし、(了)(海)では「あふひ」であるが、(京)(山)(逸)では「あせひ」と表記されている。その場の思いつきで「アセビ」を「葵」、或いは「葵」を「アセビ」に変更することは不可能なので、蕪村は熟考の末「あふひ」と「あせひ」の2つの表記を併存させた可能性が考えられる。またその際、蕪村は他の本を参照した可能性も考えられる。参照した本が「あふひ」となっていたか、「あせひ」となっていたかは判断できない。このことについては、別な機会に詳しくみてみたいと思う。

22b.01
(版).誠人能道を勤義を守へし [人能][]が[(は)]に似ている



(了).まことに人能道をつとめ義を守へし
(海).誠・・道を勤・・義を守・へし 
(京).まことに道を勤・・義を守へし
(山).誠・・・人道を勤・・義を守・へし
(逸).誠・・・人能道を勤・義を守へし
(七).誠・・道を勤・・義を守る
 
画像引用 (七).蕉門七書(芭蕉翁七書) 国文研

蕪村は明和版の「能」を「盤」と読み違え変体仮名の「盤(は)」と考え、(海)(京)(山)では「ハ」と表記したものと思われる。しかし(了)(逸)では「能」と表記されている。その場の思いつきで「能」を「ハ」に、或いは「ハ」を「能」に変更できるとは思えないので、蕪村は熟考の末「能」と「ハ」の2つの表記を併存させた可能性が考えられる。またその際、蕪村は他の本を参照した可能性も考えられる。

24a.06
(版).風雲の中に旅寐するこそ [とは(者)]に見える



(自)「するこ楚(そ)」 (曽)「するこそ」  (柿)「するこ所(そ)」 (西)「するこそ」

西村本は「するこそ」と読める。「そ」は「者(は)」とも読めるが、「するこは」では文が通じないので、必然的に「するこそ」と読める。元禄版では「こ」と読むのは難しく「と」と読める。そのため、「するとそ」或いは「するとは」と読めてしまう。寛政版では更に「と」に近くなっている。

するとそ


元写W1 元写M 元写IK 寛写FI  半化坊W

するとは


元写S(扶桑残玉集) 元写W2 元写HA 七W(芭蕉翁七書) 七写HR

蕪村では、(了)(京)では「するこ所(そ)」、(山)(逸)では「する古(こ)そ」、そして(海)では「すると者(は)」と表記されている。
蕪村は明和版を基に「するこ所(そ)」と「する古(こ)そ」の2系統の下書きを作り、更に他の本を参照して「すると者(は)」とした可能性がある。或いは、「するとは」と誤読したものを、他の本で「するこそ」と訂正した可能性もある。そのため「所(そ)」「古(こ)」の仮名を用いて「とは」との差別化を図ったのかもしれない。



(了).風雲の中に旅するこそ
(海).風雲の中に旅するとは
(京).風雲の中に旅するこそ
(山).風雲の中に旅するこそ
(逸).風雲の中に旅するこそ

25a.04
(版).仏土成就の大伽監とハなれりける [ける][け」に見える



元禄K 明和W 寛政I

(柿)は「なれりける」であるが、(西)(元K)は「なれりけ」とも読める。村治本は西村本系統の写本と考えられるが、「なれりけ」と表記されている。
(明W)は版木の損傷が多くあるため、あたかも「り」が欠損しているかのようにも見える。
(寛I)は、「る」と読むのは難しく、「り」或いは「ら」と読める。



洗心抄W 元写W1 元写M 半化坊W

(元写W1)(半化坊W)は「なれりける」とも読めるが、「なれりけり」と読むのが自然である。

蕪村は、(了)では「なれりけ理(り)」、(海)では「なれりけ李(り)」と表記されている。「り」「る」の混同を防ぐために「理」「李」の仮名を用いた可能性が考えられる。(京)(山)(逸)では「なれりける」と表記されている。
蕪村で「なれりけり」と「なれりける」の二通りの表記があるのは、他の本を参考にした可能性が考えられる。



(了).土成就の大伽監とハなれりけ [けり(理)]判読難
(海).土成就の大伽監とハなれりけ [けり(李)]
(京).土成就の大伽監とハなれりける
(山).土成就の大伽監とハなれりける
(逸).土成就の大伽監とハなれりける

30b.05
(版).慈覚大師の開基にて殊清


早大 元禄K 明和I 寛政I 永機W 通解NO

(自)(曽)(柿)(西)(村治)(永機)(通解)は「開基尓(に)して」と表記され、(早大)(昔安)は「 開基丹(に)して」と表記されている。
(元)は(西)の「尓(に)し」を「耳(に)」と誤読したため、(元)(明)(寛)では「開基耳(に)て」と表記されている。

(元)(明)(寛)の版本を底本にしていると思われる写本や版本で、「開基にして」と表記しているのは管見では2種見られた。



元写HA (七)蕉門七書W 七写HR

(七写)は、(七)蕉門七書の写本であるので同種とし。元写HAと合わせて2種とする。
この二種は、版本の「耳(に)て」を「尓(に)して」と誤読して「開基尓(に)して」と表記した可能性が考えられる。

蕪村では、(了)(海)(山)は「開基にて」、(京)(逸)では「開基にして」と表記されている。



(了).慈覚大師の開基に・てことに
(海).慈覚大師の開基に・て殊・・清
(京).慈覚大師の開基にて殊・・清
(山).慈覚大師の開基に・て殊・・清
(逸).慈覚大師の開基にことに

明和版の「耳(に)」は特に難読という程ではないので、蕪村が明和版を基に2種の下書きを作成した時に一方を不注意で「尓(に)して」と誤写した可能性が考えられる。
或いは、他の本を参照して「開基にして」とした可能性が考えられる。

35b.05
(版).三山順礼の句々短冊に書 [明和版][句][]欠損



元禄版では「句々」であるが、明和版では「々」の部分が欠損して判読できない。
管見では元禄版に「々」の欠損のある版は見つからなかったのだが、元禄版の写本の(元写W2) (元写IK)の「句」「句」の表記から、元禄版の晩期には「々」の欠損があったのではないかと推測できる。
 そして明和版でも、(明H) (明HO)では欠損箇所を墨書きで補い「を」「々」と修正している。

元禄ABC 元禄K 元禄R 元禄SI 元禄G1G2 元禄TZ(39/59) 元禄KM
元写W2 元写IK
明和G 明和I 明和R  明和H 明和HO(37/62) 明和W 明和N 元禄T

明和版を底本としている蕪村の奥の細道では(元写IK) (明H)と同じように「句」としている。



(海).三山順礼の句短冊に書
(京).三山順礼の句短冊に書
(山).三山礼の句短冊に書
(逸).三山順の句短冊に書

46b.03
(版).から書捨つ越前の境吉崎 [崎`][崎]元禄重版後の[]が欠落



元禄Kでは、「崎`」であるが元禄G1 元禄C 以降では「`」が欠落している。しかし 寛政I では「`」が復活している。また寛政Iは、青丸部分の「の」のはらいを強調することで「可」であることが明確になっている。明和Hもこれと同じ趣旨で「`」と「の」が墨書きで修正されたのではないかと思われる。

・元禄ABC 元禄K 元禄R 元禄SI 元禄G1G2 元禄TZ(50/59) 元禄KM /・元写IK
・明和G 明和I 明和R  明和H 明和HO(48/62) 明和W 明和N 元禄T /・寛政I

西村本、元禄版後期以前には「`」があるため、青丸の部分が「可」であると推測できるので、「崎」と読めるが、「`」が欠落した元禄後期以降では、「崎」と読むのは難しく「嶋」とも読めてしまう。注*

蕪村の「奥の細道」でも、「`」の欠落した明和版を底本にしているために、(海)(京)(山)では「嶋」と表記されている。しかし(逸)では、「崎」と正しく表記されている。

一度「嶋」と読み込んだものを、「崎」と読み直すことは困難であるうよに思える。(逸)で「崎」と読み直せたのは、他の本を参照したからではないかと思われる。



(海).から書捨つ越前の境・吉
(京).から書捨つ越前の境・吉 [捨ぬ][ぬ]見せ消ち右に[つ]
(山).から書捨つ越前の境・吉
(逸).から書捨つ越前のくに吉崎

管見では蕪村以外で「嶋」と表記している写本は確認できていないが、おそらくそれは、ほとんどの写本は「`」の欠落のない「元禄版」や「寛政版」を底本にしているためではないかと思われる。

注*
「崎」は必ずしも「`」が必要というわけではない。例えば、28a.03「小黒崎」を見ると次のように表記されている。

この「崎」は「`」がなくとも「可」の部分が明確になっているため「崎」と読める。
 
49b.01
(版).かくれて比那か嵩あらハる [嵩]が[]に見える





・(早大) (元写HA)は「嶌」と読める。
・(土芳) (元写W1・M) (七写HR) については、「嵩」と読めるが「嶌」と紛らわしい。
・(永機W) (元写W2)は「嶋」・ (百家交筆) (鼇)は「島」と読める。

AII  早大 元写HA 元写M 七写HR 永機W 元写W2W

蕪村は明和版の「嵩」を「嶌」と誤読し、(京)では「嶌」、(海)(山)では「嶋」と表記したものと思われる。しかし(逸)では「嵩」と表記されている。一度「嶌」と読み込んでしまったものを、「嵩」と読み直すのは困難である。(逸)で「嵩」と読み直せたのは、他の本を参照した可能性が考えられる。


(海).かくれて比那かあらハる
(京).かくれて比那かあらハる
(山).かくれて比那かあらハる
(逸).かくれて比那か嵩あらハる

2020.03.04


・他の本を参照したと思われる例

45b.01
(版).残・・ものゝうらみ隻鳬のわかれて
(了).残・・ものゝうらみ隻鳬のわかれて
(海).残・ものゝうらみ隻鳬のわかれて
(京).のこるものゝうらみ隻鳬のわかれて
(山).残・・ものゝうらみ隻鳬のわかれて [わかれて][か]判読難
(逸).のこるものゝうらみ鳬のわかれて

 

明和版は「隻鳬」であり、(了)(海)(京)(山)も「隻鳬」であるが、(逸)は「雙鳬」と表記されている。「雙鳬」が誤字であるならば、単なる書き間違いと考えることもできるが、西村本系以外では、「雙鳬」の表記がかなり見られる。



(自筆)「隻鴨」 
(曽良)「隻鳬」
(早大)(通解)(柿衛)は「雙鳬」 (昔安)は「雙鳬(テフ)」と表記されている。
(桃鏡)は「双鳬」 (蕉門七書)(七写)では「雙鳬(ソウウ)」と表記されている。

 また、奥細道菅菰抄では「隻鳬ハ雙鳬の誤なるへし」と前漢書を引いて解説をしている。

早大本 (通解)奥細道通解(写)NO  元禄K 明和I
・ (桃鏡)芭蕉翁文集写W 蕉門七書W 七書写本HR 奥細道菅菰抄W
  
以上より、蕪村は明和版を基に「隻鳬」と表記していたものを、(逸)では他の本を参照して「雙鳬」と変えたものと思われる。

2020.03.10

与謝蕪村 奥の細道 上巻
与謝蕪村 奥の細道 下巻
12-13. 14. 15. 16-17. 18.

表紙 000 
1.序章 001 002 003.03
2.旅立 003.03 004 
3.草加 005 006.05
4.室の八島 006.06 007.05
5.仏五左衛門 007.06 008 009.01
6.日光 009.02 010 011 012.03
7.那須 012.04 013 014.06
8.黒羽 014.07 015 016.07
9.雲巌寺 016.08 017 018 19.07
10.殺生石・遊行柳 19.08 020 021.02
11.白河の関 021.03 022.06
12.須賀川 022.07 023 024 025.05
13.あさか山 025.06 026.06
14.しのぶの里 026.06 027.07
15.佐藤庄司が旧跡 027.08 028 029.07
16.飯塚 029.07 030 031.08
17.笠島 031.08 032 033.03
18.武隈 033.04 034 035.01
19.宮城野 035.02 036 037.04
20.壺の碑 037.05 038 039 040.03
21.末の松山 040.04 041 042.04
22.塩竈 042.04 043 044.04
23.松島 044.05 045 046 047 048 049.05
24.石巻 049.06 050 051.07
25.平泉 051.08 052
053 054 055.01
26.尿前の関 055.02 056 057 058 059.01
27.尾花沢 059.02 060.03
28.立石寺 060.04 061
29.最上川 062