2020年12月20日日曜日

松島図誌 瑞巌寺の朝鮮梅(臥龍梅)について part.2

Part.1 からの続きです。

2.瑞巌寺の朝鮮梅はいつから臥龍梅と呼ばれるようになったか。

現在、宮城県の公式のサイトでは、瑞巌寺の紅白の2株の梅を「臥竜梅」と表記し、瑞巌寺の公式サイトでは、「臥龍梅」或いは「臥龍八ツ房」と表記しています。

しかし、先に見た「松島図誌」「塩松勝譜」「松島勝譜」「松島案内」には、「朝鮮梅」或いは「八つ房の梅」と書かれているだけで、「臥龍梅」や「臥龍八ツ房」という表記は見られません。また、明治期の瑞巌寺の住職が著した「松島案内」にも「臥龍梅」という表記は見られません。

松島案内瑞巌寺略伝
中原鄧州 編 瑞巌寺 明30.10(1897)
国会図書館 p15
一 庭前・・・・・・・五葉松八房梅紅白二株ア
り重辨ニテ香氣多シ葩ノ間又蘃アリ一輪ニ八箇ノ菓實ヲ結フ政宗
公朝鮮征討ノ節携へ歸リ手自ラ植付ラレタルモノナリ

上記は次を増補したものです。

案内記 
原東最 著 明23.9(1890)
国会図書館 p6
○ 庭前・・・・・・五葉ノ松。八房ノ梅紅白二株ハ政
宗卿朝鮮征伐ノ節携歸リ手自カラ植付ラレタルモノト
云傳フ

更に、昭和3年発行の宮城郡誌にも「臥龍梅」という記述はみられないので、瑞巌寺の紅白の梅が一般に「臥龍梅」と呼ばれるようになったのは、昭和に入ってしばらく経ってからのことではないかと思われます。 

宮城郡誌 宮城県宮城郡教育会  昭和三年(1928) 
第九節 天然記念物 第一項 植物 二、名木  国会図書館 p847
朝鮮凱旋の梅 郷土人稱して「八ツ房の梅」と云ふ、松島瑞巌寺本堂の庭園、御成門の左右に二株併植し、紅白二種の梅樹にして慶長十四年三月二十六日精舎上梁の雅宴に藩祖手づから植ゆる所なり樹齢三百二十年を累ぬる古木なり、其の花重瓣其の香馥郁他の種に勝れり、爾かも結實重累密着して二顆以上五六顆に及べる特長あり。仙臺藩祖貞山公文錄朝鮮の役に出陣し、凱旋のとき齎らし来れる天然記念物なり、公も亦動中静の仁なるか、公の吟詠左に。
 絶海行軍歸國日。鐵衣袖裏裹芳芽。風流千古餘清操。幾歳閑看異域花。
 臨松勝譜。朝鮮梅。瑞巌寺殿前に在り。紅白二株あり。貞山公嘗て征韓の役に得る所の種にして。茲に栽えしむと云ふ。老幹鱗皴痩 枝樛曲。其花千葉一芬五六實。若くは八九實を結ぶ初め花開く時花心中に數小蕋を簇發し。而して香氣尤も烈なり。范石湖梅譜及陳扶搖秘傅花鏡中に未だ嘗て載せざる所なり。實に奇品と稱すべし。

[皴][夋+阝]  [臨松勝譜 (臨)は(鹽)の誤り]

では、最初に瑞巌寺の朝鮮梅を臥龍梅と呼んだのは誰かというと、それは塩釜の志波彦神社の宮司も務めた芳賀真咲であるかもしれません。

松島道案内 : 一名・奥州汽車の初旅
芳賀真咲 著 金港堂 明治22.7(1889)
国会図書館 p164-165
中門を入りて臥龍梅(ぐわりようばい)といふ老木の梅が有る、此梅ハ八ツ房で枝が地上を這ツて其の地に付た處から根を生ずるを性(せい)とす。此が朝鮮征伐の御土産だと云ひ傳へて居る

ここで注目したいのが、「枝が地上を這ってその地についた処から根が生ずる」という記述です。現在の瑞巌寺のホームページの説明には、[地上を這いうねるように枝を伸ばす樹の姿が「臥せた龍」に似ていることが「臥龍梅」という名前の由来です。]とありますが、「地についた処から根を生ずる」というような説明はありません。この他、宮城県史などでもこのような説明はありません。
 では一体、この説明はどこから来ているのかというと、それは「亀井戸梅屋舗の臥龍梅」からではないかと思います。

古今要覧稿 草木部 梅五
国会図書館 77
 臥龍梅
臥龍梅ハ亀井戸梅やしきに植る所古木にして
世のしる所なりまゝその種を植るものあり正
月末より開く花は単瓣清白中輪にして上花也
蕚黄緑にて紅色を帯たりその馥郁ととして數
歩にかほれり又一種淡紅のものあり花形白色
のものと異ならすされと清白の方を真の臥龍
とすへしと(春田久啓韻勝園梅譜)いへり淡紅ハ即白花よ
り変せしものなるへし諸書に淡紅の説見えす
その木の形枝の末地中に入て幹となり枝と成
てはひわたる故臥龍梅と黄門光圀卿名付給へ
りと今ハ其地中より出し幹ひともと/\にわか
れて數株となれり其地中へはひし枝ハ皆朽た

和漢三才圖會云江戸龜井戸有2名木梅1枝着地處
根ヲ蕃2方六丈餘ニ1(白花香甚)
怡顔斎梅品云臥梅和名ハヒムメ梅譜ニ云ク去2成都1
二十里有2臥梅1偃蹇十餘丈相傅唐ノ物也謂2之ヲ梅龍1
好事者載酒遊フ之ニ


「江戸、龜井戸に梅の名木がある。枝が地に着く処、根を生ず。」というような和漢三才図会が引用されていますが、松島道案内はこのような亀井戸の臥龍梅の特徴を、瑞巌寺の紅白の梅に重ね合わせたのではないかと思います。
 この他に瑞巌寺の紅白の梅を臥龍梅としているものに、観光客のお土産用に作られた松島真景図があります。

松嶋真景全圖
明治廿四年五月一日印刷同年同月二日出版 (1891)
発行編輯兼印刷者 仙台國分町二丁メ五十四番地初版出版所
盛光堂 今野謙三郎 



松島真景図は、明治20年代から大正の頃まで色々な種類が発行されていますが、「朝鮮臥龍梅」と表記されているものは管見では上掲以外は見当たりませんでした。(一心 みずい版画 WEB画廊 No.18 掲載の 松嶋塩釜真景全図  盛光堂蜂屋十馬編讃輯 明治27年 にも 瑞巌寺内朝鮮臥龍梅 と表記されているようです。また、これよりも後に発行されたと思われる真景図に「八つ房の梅」と表記されているものをネットオークションで見たことがあります。)
 これ以外では、次の本に臥龍梅という記述がありました。

松島と金華山 中村古峡・中村蓊(なかむらしげる) 
大正六年八月卅一日発行(1917)
国会図書館 p60
「臥龍梅」中門を入ると廣い、古雅な庭園があつて、其の中に政宗公朝鮮
征伐の際、彼國から齎したと云ふ八房の老梅が二株(しゆ)ある。一は紅梅、一は
白梅、八重で花瓣の間に又蘃(ずゐ)あり、一輪に八個の果實を結ぶと云ふ。


この本では、題が「臥龍梅」とはなっていますが、梅の説明は従来通りの、八房の梅の説明となっています。

以上のことから、瑞巌寺の紅白の梅は昭和の初め頃までは、「臥龍梅」と呼ばれることはほとんどなく、一般的には「朝鮮梅」「八房の梅」と呼ばれていたものと思われます。

では、瑞巌寺の紅白の梅が「臥龍梅」と呼ばれるようになったのはなぜかというと、それは、「若林の朝鮮梅」が国の天然記念物に指定されたことによる影響が大きいのではないかと思います。 このことについては次回以降に続きます。

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資料

韻勝園梅譜  春田久啓
国会図書館 10
臥龍梅
 清白と粉白の二種ありといふ潔白なるものを真
 の臥龍梅とすへし単の花にて香氣ことによし
 実の形も亦他の梅と殊にして林檎の如し
 花の多少により大小ありといへとも実ハ大ならさる方
 なり此木枝を垂を性となし古木となれハ殊に
 屈曲して臥龍の形をなせり枝をたハめて地につかし
 むれハおのつから根を生すまた此木の性なり予か友梅
 龍園にうゆる所尤古木にして真の臥龍梅と云へし

古今要覧稿では、韻勝園梅譜を引用して、「清白」と「淡紅」と書かれていますが、実際には、「清白」と「粉白」と書かれています。

怡顔斎梅品 2巻. [1]
臥梅
国会図書館 32 33 34 35

 

名所江戸百景 亀戸梅屋舗
歌川広重(初代)
国会図書館


 

Flowering Plum Orchard
Vincent van Gogh 
ゴッホ美術館


三十六花撰 東京梅屋敷臥竜梅
喜斎立祥(二代目歌川広重)
国会図書館


江戸名所尽 梅屋敷 臥龍楳 開花ノ圖
英泉画
Museum of Fine Arts Boston

江都梅屋舗臥龍林之図
英泉画
The British Museum

東京三十六景 亀井戸臥竜梅
昇斎一景
東京都立中央図書館

花美人名所合 亀戸臥龍梅
尾形月耕
在外日本美術データベース 
プラハ国立美術館

臥龍梅
鈴木春信
MRAH

 

2020.12.20
2020.12.27

2020年12月5日土曜日

松島図誌 瑞巌寺の朝鮮梅(臥龍梅)について

宮城県には、朝鮮梅(臥龍梅)と呼ばれる梅が二箇所にあります。
一つは「古城の朝鮮ウメ」と呼ばれるもので、宮城刑務所の敷地内にあり国の天然記念物に指定されています。もう一つは「瑞巌寺の朝鮮ウメ」です。紅白2本の梅が瑞巌寺の庭に植えられおり、県の天然記念物に指定されています。そしてどちらの朝鮮梅も伊達政宗が文禄の役の際に朝鮮から持ち帰った梅であるとされています。
 しかし、古城の朝鮮ウメは、白い一重の花であるのに対し、瑞巌寺の朝鮮ウメは、紅白ともに八重の花で、品種が違います。品種の違う両者とも、伊達政宗が朝鮮から持ち帰ったとは考えにくく、どちか一方は朝鮮由来ではない可能性が高いように思います。そこで、松島図誌などの記述をもとに、両者の関係を考えてみたいと思います。

1.瑞巌寺の朝鮮梅の品種「ザロン梅」について

現在、瑞巌寺の朝鮮梅の品種について書かれた資料は、皆無と言ってよいのではないかと思います。しかし松島図誌にはその品種について書かれています。

松島図誌 鼓缶子(桜田虎門) 述 東澤 圖 伊勢屋半右衛門 文政四年(1821)
国文研 16
○朝鮮梅 瑞岩寺の庭上に二株(にほん)の梅あり一ハ紅花(こうくわ)
一は白花なり其花重瓣(やへ)にして中にある蘃(しべ)の外に葩(はなびら)
の間ごとに又少しつゝの蘃あり香気(かほり)も殊にすぐれたり
実は三つ四つ又は五つ六つも同し蒂(ほそ)につきて尋常の
梅子(うめのミ)よりハ小し年によりて十餘も結ぶ事ありされ共
老樹(ふるき)なる故にや年経(ふ)るに従て実を結ぶ事少くなると
いへり 貞山公朝鮮にわたり給ひし時種を得て爰に
栽(うゑ)させ給ふと云 秘傅花鏡といふ書などにある品字梅(ざろんうめ) 鴛
鴦梅(はなざろん)などいふ種類なるべし品字梅は日本にもありて
其花其香其実ミな奇なる故に 後水尾帝(ごミのをのミかど)花香実
といふ號を給ふとなり


(クリックすると大きな画像が出ます)

八つ房の梅

注:貞山公は伊達政宗のこと。

筆者の鼓缶子(桜田虎門)は、儒者であるだけでなく、本草学にも造詣が深かったようで、朝鮮梅の特徴を詳しく調べ列記し、「秘傅花鏡」の記述と照合し「品字梅(ざろんうめ) 鴛鴦梅(はなざろん)などいふ種類なるべし」と品種を特定しています。

秘傅花鏡 三巻 陳 淏子 訂輯 平賀源内 校訂 安永二年(1773)
東大駒場図書館 134 
鴛鴦梅 重葉數層紅艶輕盈一蔕雙實
品字梅 一花結2三實ヲ1伹其實小不甚レ喋二

しかし現在この梅の種類について言及されている資料は皆無と言っていいと思います。それは次の塩松勝譜の影響によるものではないかと思います。


塩松勝譜  巻之三 舟山万年(光)編・佐沢広胖校訂 文政五年成立(1822)
仙臺叢書別冊四巻 1907  活字翻刻
朝鮮梅
 瑞巌寺殿前ニ在り。紅白二株アリ。貞山公曾テ征韓
 ノ役ニ得ル所ノ種ニシテ。茲ニ栽ヱシムト云フ。老
 幹鱗皴痩枝樛曲。其花千葉一芬五六實。若クハ八九
 實ヲ結フ初メ花開ク時花心中ニ數小蕋ヲ簇發シ。
 而シテ香氣尤モ烈ナリ。范石湖梅譜及陳扶搖秘傅
 花鏡中ニ未タ曾テ載セサル所ナリ。實ニ奇品ト稱
 スヘシ。

上記のように塩松勝譜では、「梅譜」にも「秘傅花鏡」にも載ってない奇品である。としています。しかし、梅譜にも秘傅花鏡にも、ザロン梅のことは載っているわけですから、ザロン梅ではない理由を述べずに、本に載ってないと否定するのはフェアではないと思います。

梅菊兩譜 梅譜 范成大 著 阿部喜任 校 天保元(1830)
東大総合図書館 11
鴛鴦梅多葉紅梅也花輕盈重葉數層大凡雙果必並
蒂惟此一蔕而結雙梅亦尤物

この塩松勝譜の否定の影響から、松島勝譜では次のようになります。

松島勝譜 
校訂 大槻復軒 編纂 作並鳳泉 
筆者 原田鼎洲  畫 瀧和亭  荒木寛畒  川端玉章
出版:明治21年7月28日(1888)
宮城県図書館 31 32
○朝鮮梅 又八房の梅といふ政宗卿征韓の役の歸路
に齎したまひし種なり瑞巌寺の庭上にあり一は紅
にて一ハ白なりその花重瓣にして中央なる蘃の外に葩の
間ごとに又少しづゝの蘂ありて香氣も殊にすぐれたり實
ハ三ツ四ツ五ツ六ツも同じ蘂につきて生ず尋常の梅子
よりハ小し老幹鱗皴痩枝樛曲にして年経るに從ひて
實を結ぶこと少なくなるといへり世にある品字梅鴛鴦
梅の種類にあるべしといふ人あれども此花と全く同じからず
范石湖が梅譜又陳扶揺が秘傅花鏡にも載せざるもの
にて實に奇種といふべし當時卿の詩あり曰く絶海行軍
國日。鐵衣袖裏裹2芳芽1。風流千古餘2清操1。幾歳閑
看異域花。この真蹟舊熊本細川侯の家に蔵せりといふ
又芳芽を裹ミたるものハ竹にてあミたる籠にて維新の
初めまで舊幕臣松平友三郎氏珍籠せりといへど今
ハ如何なりしか

前半の朝鮮梅の説明は松島図誌から採られていますが、「塩松勝譜」を踏襲してザロン梅については否定しています。これらの否定は、朝鮮梅が日本にもあるザロン梅と同じ品種であるとされているのが問題だったのだと思います。伊達政宗が朝鮮から持ち帰った梅なのだから、唯一無二の種でなければならないと考えたのかもしれません。
 また、松島勝譜では、松島図誌と塩松勝譜が組み合わさっているため、「梅譜」や「秘傅花鏡」にはザロン梅が載っていないようにも読めてしまします。このことから更に次のように変化します。

松島案内 今泉寅四郎 明治卅八年八月十七日発行(1905年)
国会図書館 p32
朝鮮梅 俗に八房の梅と云ふ、瑞巌寺本堂の前なる二株の梅樹(うめ)是 
れなり一は紅梅にて一は白花(しろ)なり其花重瓣(やへ)にして中にある蘃(すべ)の外  
に葩の間ごとに又少しつゝの蘃あり香氣(にほひ)も殊に勝れたり實は三  
つ又は五つ六つも同じ蒂(もそ)につきて尋常の梅實よりは稍小なり老幹槎
枒屈曲して甚だ雅致あり、この花范石湖の梅譜又陳扶搖の秘傅花鏡中
にも載せざれど恐くは品字梅(ひんじばい)鴛鴦梅(えんおうばい)なとの變種ならんか品字梅は日
本にもありて 後水尾天皇『花香美(はながみ)』の名稱を給へり、實に貞山公
朝鮮の役携ひ帰られたる者にて當時公の詩に曰く「絶海行軍歸國日。
鐵衣袖裏裹芳芽。風流千古餘清操。幾歳閑看異域花。」

上記の松島案内は、松島図誌と松島勝譜の両方を参照しているものと思われますが、松島勝譜に引っ張られ、梅譜や秘傅花鏡にはザロン梅について書かれていないとしています。そして、「品字梅・鴛鴦梅などの変種ならんか」と松島図誌の記述を微妙に変えています。
 このような経過をたどるうちに、ザロン梅の記述は削ぎ落とされ、瑞巌寺の朝鮮梅の品種について言及されることはなくなってしまったようです。
 

2020年12月5日

2.瑞巌寺の朝鮮梅はいつから臥龍梅と呼ばれるようになったか。

2020年11月29日日曜日

松島図誌 [石斛(セッコク) 鹽松紀行からの模写と松島勝譜のトレース]

仙台藩の儒者であった桜田虎門は、本草学にも造詣が深かったようです。松島図誌には、松島に自生する、石斛(セッコク)という植物が紹介されています。

松島図誌 鼓缶子(桜田虎門) 述 東澤 圖 伊勢屋半右衛門 文政四年(1821)
国文研 35 36

▲産物 ○福浦嶋の竹(くハしく前に見へたり)○岩長生(即巻柏なり)  [岩長生(いハひば)]
○石斛○雨漏草(即尾韋なり)○城垣草(即海州骨碎補なり)  
[城垣(しのぶ)]
○寒ざらし鹿角菜○水飴○茶筅○紅蓮せんべい・・・


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しかし、この絵は次の本を元に描かれたようです。

鹽松紀行
著者:僲臺 南山  釋古梁(古梁紹岷) 文化六年二月(1809)
附録:先遊遺観 仙臺 東斎 菅智義(菅井梅関) 図
国文研 17


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石斛
諸島多生之以棕皮包根以
代掛蘭雅澹可愛也

両者は多少は違っていますが、絵の質感などは同じです。出版年からみて、松島図誌の東澤は、鹽松紀行の菅智義の絵を参考に描いたものと思われます。

更に、松島勝譜では、 鹽松紀行の絵をトレースしています。

 

松島勝譜 校訂:大槻復軒 編纂:作並鳳泉 筆者:原田鼎洲
画:瀧和亭 荒木寛畒 川端玉章  出版:明治21年7月28日
宮城県図書館  33


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石斛(せきこく)

松嶋名産の一なり
南山師曰諸嶋多生
之以2棕皮1包根以代2
掛蘭1雅澹可愛也こ

の外に岩に岩長生雨漏  
[岩長生(いはひバ)]
草城垣草等を産す    
[雨漏草(あめもりさう)] [城垣草(しのぶぐさ)]

落款:寛畒

絵に添えられている文章には、「南山師曰く」とあり、鹽松紀行の作者について言及されているのですが、書名には言及されておらず、絵には「寛畝」の落款があります。先に見た松島真景のトレースと同じように、荒木寛畒は名前を貸しただけなのかもしれません。

また、文章の構成からすると、松島勝譜は、塩松勝譜と松島図誌も参考にしているものと思われます。

 
塩松勝譜  巻之三
舟山万年(光)編・佐沢広胖校訂
文政5年成立(1822)
仙臺叢書別冊四巻 巻之十四 p276

石斛
 松島島嶼所在之アリ南山禅師 鹽松紀行ノ附録之
 レヲ載ス曰ク。諸島多ク之ヲ生ス。皮根ヲ包ミ以テ
 掛蘭ニ代フ 雅澹愛ス可キナリ 延喜式。貢薬。陸奥
 六種 其中石斛八十斤



もう一つ、松島勝譜が鹽松紀行の絵をトレースしている箇所を見てみたいと思います。

鹽松紀行
著者:僲臺 南山  釋古梁(古梁紹岷) 文化六年二月(1809)
附録:先遊遺観 仙臺 東斎 菅智義(菅井梅関) 図
掛田島・烏崎   国文研  15


(クリックすると大きな画像が出ます)

  

松島勝譜 校訂:大槻復軒 編纂:作並鳳泉 筆者:原田鼎洲
画:瀧和亭 荒木寛畒 川端玉章 出版:明治21年7月28日
掛田嶋(かけたじま)  宮城県図書館 47  48


(クリックすると大きな画像が出ます)

鹽松紀行では「烏崎」と書かれた部分に、瀧和亭(蘭田)の落款があります。

瀧和亭(蘭印)の落款

和亭 蘭印

和亭も高名な画家なので、トレースをしたとは思えないので、名前を貸したのではないかと思います。

2020年11月16日月曜日

松島図誌 (松島真景 松島勝譜によるトレース)

松島図誌は、仙台藩の儒者 桜田虎門が著述し、東沢が絵を担当した松島の地誌です。寛政4(1821)に出版され、その後、天保2(1831)、明治21年7月3日(1888)と重版されています。

次は、松島の真景図です。

松島図誌 鼓缶子(桜田虎門) 述 東澤 圖 伊勢屋半右衛門 文政四年
国文研 03, 04, 05
松島図誌  東澤 図 松島真景図
(クリックすると大きな画像が出ます)
 

本誌ではページごとに分割されているのでわかりにくいのですが、ページを繋ぎ合わせてみると、六曲の屏風のような松島のパノラマが広がります。
向かって左から、冨山・五大堂・松島港・観瀾亭・渡月橋・見仏堂などが描かれています。

そして、この真景図は 松島勝譜 でトレースされています。

松島勝譜 校訂:大槻復軒 編纂:作並鳳泉 筆者:原田鼎洲
画:瀧和亭 荒木寛畒 川端玉章  出版:明治21年7月28日
松島真景 宮城県図書館 09, 10, 11, 12

松島勝譜  荒木寛畒 川端玉章  松島真景
(クリックすると大きな画像が出ます)

ぱっと見た感じでは両者は、全く同じように見えますが、細かい部分は違っています。おそらく松島勝譜は、松島図誌を被せ彫りしたのではないかと思います。

向かって一番右側と、4枚目に「川端玉章」の落款が、5枚に「荒木寛畒」の落款があります。

落款 寛畒  荒木寛畒 玉章 寫 落款  端玉章印 玉章 落款  川端玉章
 寛畒・落款/玉章・寫・落款(端玉章印)(回文印)/玉章・落款

両者ともに高名な画家なので、このようなトレースをするとは思えません。事情を知らずに名前を貸したのかもしれません。

 

2020年11月15日日曜日

松島図誌 (松島やああ松島や松島や)

松嶋図誌といえば、芭蕉の一番有名な俳句「松島やああ松島や松島や」が載っているということで有名な本です。もちろんこの句は芭蕉の作ではありませんし、松嶋図誌にも芭蕉の作と書かれているわけではありません。実際は松島に関する作品の一つとして田原坊の狂歌が取り上げられているだけです。

松嶋図誌  桜田質 著 東沢 画  国文研

         相模州 田原坊
松島やさてまつしまや松島や

芭蕉に関しては次のように書かれています。

  
 或云芭蕉翁此地に来りて風景を賞せしが詞
 の及ばざる事をしりて終に一句を得ずして
 去りぬほどへて家に帰りし後に得たる句と
 て
朝よさを誰まつしまそかたこゝろ

「朝よさを・・・」の俳句は、奥の細道の旅の前に詠まれたと言われているので、「家に帰りし後に得たる句」というのは誤りといえるかもしれませんが、「芭蕉翁此の地に来たりて風景を賞せしが詞の及ばざる事をしりて終いに一句を得ずして去りぬ」というのは、奥の細道の「造化の天工いつれの人か筆をふるひ詞を盡さむ」や「予ハ口をとちて眠らんとしていねられす」というような記述と合致しています。
 しかしこういうものは文脈が全てと言えます。奥の細道の文脈で、「松島の眺めに圧倒されて一句も詠めなかった」と言えば深淵な情景が浮かびます。しかしこれが観光案内で、「あの松尾芭蕉も松島の眺めに圧倒されて一句も詠めなかったんですよ」と言った場合、松島の風景を引き立てるために芭蕉は戯画化されることになり、「芭蕉は松島の風景に圧倒されて、松島やああ松島や松島や としいう俳句しか作れなかった。」というような伝説になるのかもしれません。こういうものは全国各地にある、「西行戻し」や「宗祇戻し」の伝説と似たものと言えるかもしれません。

松嶋図誌  国文研
○西行もどし松 長老坂右の傍の山上にあり俚俗の説に
西行は 鳥羽院の北面の士なり密に宮女に通せしが
其女度かさなればあこぎと云しに西行其詞を觧(げ)せず
僧となり諸国を巡りて爰に至る道の傍松の下に牛に草
かふ翁ありて其牛飽ざる事をあこぎなりと罵りけれは
西行これを聞て翁に問しに 伊勢の海阿漕がうらに
ひく網も度かさなればあらはれそする といふ哥を以て答ふ
西行耻て此處より帰れり依て西行もどしの松といふ
翁は即松嶋の明神なりとぞ
  一説に西行松嶋に來る道の入口にて童子(どうじ)の牛をひく
  にあふて和歌をよめりける 月にそふ桂男の通ひ来て
  すゝきはらむは誰子なるらん 童子きゝて 雨もふり
  霞もかゝり霧もふりてはらむすゝきはたが子なるらん
  とよみしかば西行大に耻て側(かたハら)なる桜を手折しるべと
  して帰りぬ今その桜はかれて松の大木あり其童子
  は松嶋の鎮守山王権現の化身也とぞ(松もかれて今はなしたゞ長老石
  とて石あり僧の形に似たり)

天理図書館善本叢書 和書之部 第10巻
曽良旅日記

(二十七オ)
○宗祇もとし橋白河ノ町より(石山より入口)
右かしまへ行道ゑた町有
其きわニ成程かすか成橋也
(二十七ウ)
むかし結城殿数代白河を知給フ
時一家衆寄合かしまニて連哥
有時難句有之いつれも三日
付ル事不成宗祇旅行ノ宿   [事]判読難
ニテ被聞之て其所へ被趣
時四十計ノ女出向宗祇に
いか成事ニテいつ方へ と問右ノ
由尓々女それハ先(さキ)に付侍りし
と答てうせぬ         [答て][答けるて][ける]消す
 月日に下に独りこそすめ
付句
 かきおくる文のをくにハ名をとめて
ト申けれは宗祇かんしられて
もとられけりト云傳

宗祇戻の別バージョンを白河風土記で見てみたいと思います。

白河風土記 二下   国会図書館

   宗祇戻
町の尾穢多町へうつる小坂の所を云
古城主小峯禅正少弼政朝文明十三年
三月十五日鹿島の神前にて一日一
萬句の連歌興行のとき宗祇も此
地へはる/\下りけるに三拾三間堂の
前を通りしに賤女の鹿島の方より
来りけるに萬句興行の事を問
ふに賤女萬句ハはや満尾したるよし
答へけれハ此所より宗祇は帰り
けるよつて宗祇戻と云なり此時賤女
の綿を持たるを宗祇見てその綿ハ
賣りと重ねて問けれハ賤女答て
  阿武隈の川瀬にすめる鮎に社  [社(こそ)]
   うるかといへるわたハ有りけれ
宗祇是を聞て東の奥の賤女かやう
の答へ奇なりとて感しけると也

これらの「西行戻し」や「宗祇戻し」のような話は全国各地にあります。この話の特徴は、「歌の権威」や「知の権威」や「ホラ吹きの権威」などが地元のたわいのない者に負けて退散するというものです。そして更にこの類型の話は、奥の細道の「中山温泉」にも出てきます。

おくのほそ道 素龍筆 井筒屋本
44b
あるしとする物ハ久米之助とて
いまた小童也かれか父誹諧を
好ミ洛の貞室若輩のむかし
爰に来りし比風雅に辱し
められて洛に帰て貞徳の門人
45a
となつて世にしらる功名の
後此一村判詞の料を請すと
云今更むかし語とハなりぬ


天理図書館善本叢書 和書之部 第10巻
曽良旅日記

(九十八オ) p275
   元禄二年七月廿九日書之
再来ノ時ノ句會有
瓜紅粉ハ末つむ花のゆかり哉
貞室若クシテ彦左衛門ノ時加州山中ノ  時[未廿余トカヤ]加州 消す
湯ヘ入テ宿泉や又兵衛ニ被進俳諧ス甚
恥悔京ニ帰テ始習テ名人トナル(一両年過テ来て俳モヨホスニ所ノ者布而習)以後山中ノ
俳点領ナシニ致遺ス今ノ(又兵へハ)久米之助祖父也

奥の細道では、洛からやってきた若き貞室は久米之助の父の風雅に辱しめられた。とありますが、曽良日記では、久米之助の祖父の又兵衛となっていますので、この違いからもこの話が伝説の類で、先に見た、西行戻しや宗祇戻しの系統の話と言えます。こういした系譜として芭蕉の「松島やああ松島や松島や」も見ることができます。

ところで、芭蕉は松島で俳句を詠でいるとして次の2句が挙げられることがあるようです。

島/\や千ゝに砕けて夏の海  (土芳 蕉翁文集) (奥のしおり)
島/\や千ゝにくたきて夏の海 
(土芳 芭蕉全伝付録 ) (俳諧一葉集 [考證])

松島や水を衣装に夏の月 (奥のしおり)
松島や夏を衣裳の水と月 (俳諧一葉集 [考證])

しかし、「島/\や・・・」の句は、土芳が芭蕉の「書捨」の中から拾い出したもので、「松島や・・・」の句は偽作の疑いが濃いものとされています。また先の「朝よさを・・・」の句も「鼻紙のはしにかゝれし句をむなしくすてがたく」書き留めたものですので、これらは芭蕉の公式の作品とは言えません。芭蕉の松島関連の確実な作品としては、「松島眺望集」に収められている次句があります。

武蔵野の月の若ばへや 松嶌種  江戸 青桃 [種(タネ)] 

松島眺望集は天和二年(1682)に、大淀三千風により編集出版されたものですから、この俳句は芭蕉が奥の細道へ旅立つ7年以上前の作品ということになります。こうしたことから、芭蕉は松島の眺めを前に、一句も詠めなかったというのは事実であると言えると思います。

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資料1

日本俳書大系. 篇外 (蕉門俳諧続集)  勝峰晋風 編
桃舐集 露通 撰 国会図書館

あさよさを誰まつしまぞ片こゝろ 芭蕉
   翁、執心のあまり常に申されし、名所
   のみ雑の句有たき事也。十七字のうち
   に季を入、哥枕を用ていさゝか心ざし
   をのべがたしと、鼻紙のはしにかゝれ
   し句を、むなしくすてがたくこゝにと
   ゞむなるべし。


三冊子 しろさうし 服部土芳 著 高桑闌更 遍 宝暦元以前成、安永五刊(1776)
大阪府立大学学術情報センター

   朝よさを誰枩しまの片心
此句は季なし師の詞にも名所のミ雑の句にもあり
たし季をとりあハせ哥枕を用る十七文字にハいさゝか心
さし述かたしといへる事も侍る也さの心にてこの句もあり
けるか猶杖つき坂の句有

 

奥州塩釜松島 舟中一覧  茂林斎 編 文政ニ刊(1819)
弘前市立弘前図書館

芭蕉 松尾氏名桃青初号2風羅房ト1俗稱甚七郎伊賀人 受ケ2業北村季吟ニ為ス2一家ヲ1元禄中没ス
   年五十三門人甚多シ皆高名也 予四代祖菅原冨水者随翁ニ而遊フ2松島ニ1得2此真跡ヲ1以蔵レ家故ニ置レ之
   あさよさをたか 枩しまそ かたこゝろ  芭蕉庵桃青

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 資料2

奥のしおり  湖月柳条 著  文化十一刊(1814) 早稲田大学図書館
下巻 0033 0034

  松島にわたる
  枩のみとりこまやに枝葉汐風に
  吹たはめて屈曲おのつからため
  たるかことし其気色窅然と
  して美人の顔を粧ふちはやふる
  神のむかし大山すミのなせるわさ
  にや造花の天工いつれの人か筆を
  ふるひ詞を盡さむ
島/\や千ゝに砕けて夏の海
松島や水を衣装に夏の月
  我松嶋の枩といひめるを筈屋
  かしける案内の海士にならふて
  松の句をもふく
松の花筈屋見に來る序かな 


雪まろげ 河合曽良 編   文政版  俳諧名著文庫 第8編
国会図書館
  芭蕉翁獨吟歌仙
  前書略
松の花苫屋見に來る序かな  [序(ついで)]
 汐干の沖を知りて行く蝶

 

日本古典文学全集 小学館 松尾芭蕉集 p481-p482
土芳『蕉翁文集』写本による
  松嶋前書
松島は好風扶桑第一の景とかや。古今の人の風情、此
島にのみ思ひよせて、心を尽し、たくみをみぐらす。を
よそ海のよも三里計にて、さま/"\の島/"\、奇曲天工
の妙を刻なせるがごとし。おの/\まつ生茂りて、うる
わしき花やかさ、いはむかたなし。
 島/"\や千々にくだけて夏の海

 

芭蕉伝記の諸問題 今栄蔵 著 新典社 p504
『蕉翁全傅附録』複製

 松嶋は好風扶桑第一の景とかや古今の
 人の風情この嶋にのみおもひよせて心
 を盡したくみをめくらすをよそ海のよ
 も三里計にてさま/\の嶋/\奇曲天
 工の妙を刻なせるかことくをの/\松
 生茂りてうるはしさ花やかさいはむか
 たなし
嶋/\や千々にくたきて夏の海 

 

俳諧一葉集 (一)  古学庵仏兮 著 幻窓湖中 編 国文研

考證
  松島
島/\や千々にくたきて夏の海
松しまや夏を衣裳の水と月

 
陸奥鵆 天野桃隣 早稲田大学図書館
        松嶋辨    芭蕉翁
抑松嶋は扶桑第一の好風にして凢洞庭
西湖を恥す東南より海を入て江の中
三里浙江の潮をたゝふ嶋/\の數を
盡して欹ものは天を指ふすものハ波に匍匐
あるは二重にかさなり三重に畳て左にわかれ
右につらなる負るあり抱くあり児孫愛
するかことし松のみとりこまやかに枝葉汐
風に吹たはめて窟曲をのつからためたるかことし
其気色窅然として美人の顔を粧ふ
千早振神の昔大山すみのなせるわさにや
造化の天工いつれの人か筆をふるひ詞を
尽ん予は口を閉て窓を開き風雲
の中に旅寝するこそあやしきまてたへ
なる心地はせらるれ
  ○松嶋や鶴に身をかれ郭公 曽良
  
風俗文選(ふうぞくもんぜん)  国文研
    松嶋賦      芭蕉翁
そも/\事ふりにたれと。松嶋は扶桑第一の好風
にして。凢洞庭西湖を恥ず。東南より海を入て。江の
中三里。浙江の潮をたゝふ。七十二峯。数百の嶋々。
欹つものは天を指。ふすものは波に匍匐。あるは  [指(ユビサシ)]
二重にかさなり。三重にたゝミて。左にわかれ。右につら  [たゞミ][ゞ]不明
なる。負るあり。抱るあり。児孫愛するがごとし。内
ふたご。外ふた子。鎧嶋。かぶと嶌。牛嶋。虵しま。内
裏嶋。屏風じま。笆が嶌はあまの小舟漕つれて。  [笆(マガキ)][籬]
肴わかつ聲/\に。つなでかなしもとよみけむ俤を
残し。末の松山は寺となりて。松のひま/\墓を築
て。羽をかはし。枝をならぶる契の末も。終にハ皆かく
のごとしと悲し。野田の玉川。沖の石。宮城のゝ萩。
武隈の松。猶此境に名をならべたり。しほがまの浦にハ。  []
塩がまの明神あり。神前のかな灯篭。文治三年。泉
の三郎奇進と記す。雄嶋が磯は地つゞきにて。雲居  [記(キ)]
禅師の別室のあとに。坐禅石。瑞岩寺ハ。相模守 [座禅石(ザゼンセキ)]
時頼入道の建立。當時三十二世のむかし。真壁平四郎
出家して。入唐帰朝の後開山す。其後伊達政宗再
興して。七堂伽藍となれりける。法蓮寺は。海岩に
峙。老杉影をひたし。花鯨波にひゞく。枩の緑こまや  [老杉(ラウサン)影(カゲ)]判読難
かに。枝葉汐風に吹たハめて。屈曲をのつからため
たるがごとし。其気色窅然として。美人の顔を粧ふ。  [顔(カンバセ)]
ちはや振神のむかし。大山ずミのなせるわざにや。造
化の天工。いづれの人か筆をふるひ。詞を盡さむ

 

資料3

日本俳書大系1 芭蕉一代集 勝峰晋風 編 p90 もとの水

松島や雪の白地の衣くばり [延寶年中 もとの水]


与謝蕪村 奥の細道 上巻
与謝蕪村 奥の細道 下巻
12-13. 14. 15. 16-17. 18.


表紙 000 
1.序章 001 002 003.03
2.旅立 003.03 004 
3.草加 005 006.05
4.室の八島 006.06 007.05
5.仏五左衛門 007.06 008 009.01
6.日光 009.02 010 011 012.03
7.那須 012.04 013 014.06
8.黒羽 014.07 015 016.07
9.雲巌寺 016.08 017 018 19.07
10.殺生石・遊行柳 19.08 020 021.02
11.白河の関 021.03 022.06
12.須賀川 022.07 023 024 025.05
13.あさか山 025.06 026.06
14.しのぶの里 026.06 027.07
15.佐藤庄司が旧跡 027.08 028 029.07
16.飯塚 029.07 030 031.08
17.笠島 031.08 032 033.03
18.武隈 033.04 034 035.01
19.宮城野 035.02 036 037.04
20.壺の碑 037.05 038 039 040.03
21.末の松山 040.04 041 042.04
22.塩竈 042.04 043 044.04
23.松島 044.05 045 046 047 048 049.05
24.石巻 049.06 050 051.07
25.平泉 051.08 052
053 054 055.01
26.尿前の関 055.02 056 057 058 059.01
27.尾花沢 059.02 060.03
28.立石寺 060.04 061
29.最上川 062