2020年10月19日月曜日

宮城県多賀城市 興井(おきのい)と奥井守(おくのいのもり)[奥井守は興井守であることについて]

松尾芭蕉は奥の細道の中で、多賀城碑(壷碑)の後に、沖の石(沖の井)(興井)を訪れています。

おくのほそ道 井筒屋本 20b

それより野田の玉川沖の石を尋ぬ
末の松山ハ寺を造て末松山といふ
 松のあひ/\皆墓ハらにてはねを
 かハし枝をつらぬる契の末も終
 ハかくのこときと悲しさも増りて

曽良は奥の細道への旅の準備として名所を下調べした「名勝備忘録」の「興井」の項に、次のように書き込みをしています。

名勝備忘録 曽良旅日記 天理図書館善本叢書 和書之部 第10巻
曽良旅日記(十三ゥ) p102

○興井 末松山ト 壱丁程間有       [壱][貳]の左に[壱]挿入
    八幡村ト云所ニ有仙臺ゟ塩竃ヘ行
    右ノ方也塩竃ゟ三丁町程有
            所ニテハ興ノ石ト云村ノ中屋敷
    之裏也

また、曽良旅行日記の本文には次のように書かれています。

曽良旅日記 天理図書館善本叢書 和書之部 第10巻
曽良旅日記(三十二ウ)(三十三オ) p144-145

一 八日 朝之内小雨ス巳ノ尅ゟ晴ル仙臺  [巳の尅][巳の刻]
  ヲ立十符菅壷碑ヲ見ル未ノ尅
  塩竃ニ着湯漬なと喰末ノ松山
      興井野田玉川をもハくの橋浮嶋
  等ヲ見廻リ帰・・・・・・・・

そして、山口の豪商の安部四郎右衛門の奥州旅日記には次のようにあります。

みちのく行  p52 

▲沖石   ○今ハ里中也トトモ汐の
      ミチヒ池上ニアラハル
 わかそてハ 汐干に
    見えぬ・・・・の
        ひとこそしらね かはくまも なし
右ハ 
 江古平吉ト云ル百姓ノ庭上也

 此男諸役御免トソ○此家ニテ   
 昼飯ヲ乞テ直ニ案内ヲ平吉ニ頼
 是ヨリ壷ノ碑三十丁計有

上記の歌は途中省略されていますが、次のようになります。

わかそてハ 汐干に 見えぬ (沖の石) の ひとこそしらぬ かはくまも なし

これは小倉百人一首にも入っている二条院讃岐の歌です。芭蕉も「沖の石」と書いているので、この二条院讃岐の歌を踏まえているのだと思います。一方曽良は「興井(おきのゐ)」としています。

これは次の歌を踏まえているのかもしれません。

おきの井て みをやくよりも悲しきは みやこしまへの 別れなりけり

この歌は小野小町の作とされ、伊勢物語にも取り入れられています。

曽良の名勝備忘録の書き込みに、「所ニテハ興ノ石ト云」とありますが、これは仙台藩から任命されたこの地の管理人がそのように言った。ということなのだと思います。 
 芭蕉と曽良がこの地を訪れたのは、元禄2年(1689年)5月8日 のことなので、初代の管理人である「平兵衛」或いは、3代目の管理人である「平兵衛(初代の孫)」であったものと思われます。また、安部四郎右衛門のみちのく行には、「右は、江古平吉(ごうこへいきち)ト云ル百姓ノ庭上也 此男、諸役御免トゾ」とありますが、この平吉は5代目の管理人となります。これらの管理人については「代數有之御百姓書出」に書かれています。(資料1参照)

ところで、この「興井」の管理人についてなのですが、宮城県の公式の文書などでは「奥井守(おくのいのもり)」とされています。次は「興井」の案内板です。

興井(おきのい) 国名勝
Oki-no-i
「沖の井」や「沖の石」とも呼ばれ、古くは『古今和歌集』
小野小町や、『千載和歌集』二条院讃岐などが和歌に詠んだ
歌枕ゆかりの地です。仙台藩準一家天童氏の屋敷があった
八幡村の民家の一角に位置しており、松尾芭蕉の『おくのほそ道』
の旅に同行した曾良は、興井が民家の裏手にたたずんでいる
ことを記しています。仙台藩による名所旧跡整備の一環として、
四代藩主伊達綱村は、地元の有力者を「奥井守(おくのいのもり)」に任命し、
諸役を免除する代わりに興井を手厚く保護させました。

 ここで疑問に感じるのが、興井(おきのい)を管理する者がどうして「奥井守(おくのいのもり)」なのか? ということです。「興井」を管理するのですから「興井守(おきのいのもり)」とするのが自然であるように思えます。

そこで、「奥井守」の載っている資料を見てみました。

宮城県史 24巻 宮城県史編纂委員会/編 宮城県史刊行会  1954年 
風土記御用書出   宮城郡陸方八幡村[多賀城町] p398-p404
代數有之御百姓書出 宮城郡陸方八幡村[多賀城町] p404-p405

するとやはり「奥井守」と書かれていました。(赤線挿入)

代數有之御百姓書出
(赤線挿入)

しかし、関連の箇所を見ると「興」となるべき文字がすべて「奥」と書かれていました。

風土記御用書出
(赤・青線挿入)

奥を「オキ」と読むのか? という問題は置くとして、地名である「オキの井」が「興」ではなく「奥」となっているのは、「奥」と「興」を取り違えていると考えるしかありません。 この資料よりも先に書かれた、「奥羽観蹟聞老志」「封内名蹟志」「封内風土記」これらには、「興」の字が用いられています。また、「興」の代わりに「沖」「起」「熾」を充てる場合があると書かれていますが、「奥」を充てるという記述はありません。

奥羽観蹟聞老志 佐久間義和(1653-1736)   宮城県  明治16年(1883) 国会図書館
封内名蹟志 佐藤信要 序 高橋以敬 寛保改元辛酉冬至日(1741)  仙台叢書第八巻 仙台叢書刊行会 
封内風土記 田辺希文(1693-1772) 校訂 鈴木省三(1853-1939) 仙台叢書出版協会 明治26(1893) 国会図書館

では、どうして「興」と「奥」を取り違えたかというと、おそらくそれは、「興」と「奥」の異体字がよくに似ているためではないかと思います。

奥 の異体字 グリフウィキ u5965-itaiji-002

 興 の異体字 https://glyphwiki.org/glyph/sawd-26008.50px.png グリフウィキ sawd-26008

実は両者の取り違えは他でも見られます。次は、天野桃隣の陸奥鵆です。 早稲田大学図書館

陸奥鵆  天野桃隣
此所より八幡村ハ一里余細道を分入 八幡村
百姓の裏に興の井有 三間四方の岩廻リハ
池也 処の者ハ 沖の石と云 是ヨリ末の松山

ここには、「興の井」と書かれていますが、大正時代に翻刻された本には、「奥の井」と書かれています。陸奥千鳥 俳書堂 大正5年(1916) 国会図書館

ところで、上記の文字がどうして「興」であると断定できるのかというと、同じページに「奥州」という記述があるので、比較することができるからです。次にそれぞれ比べてみます。

興の井 奥州一

陸奥鵆(刊本) 早稲田大学図書館
陸奥鵆(写本) 八戸市立図書館
陸奥千鳥(翻刻) 国会図書館

上記のように「奥」と「興」は区別されていますが、誹諧堂の翻刻では「奥の井」「奥州一」と両者が混同されています。

このような混同は仙臺叢書の「封内名蹟志」にも見られます。
「興井郷。一に起居の郷と作る。八雲御抄奥の井の里あり。」 

封内名蹟志の原文を確かめることはできないのですが、「封内風土記」に次のようにあります。
「興井郷。一作起ノ居。観迹聞老志。名跡志共曰。八雲御抄。有興井ノ郷」

つまり、「奥羽観蹟聞老志」と「封内名蹟志」には「興井」と書かれている。とあるのです。このことから仙臺叢書の封内名蹟志の「奥の井」との記述は、翻刻する際の誤りとみることができます。また、皇都島の項目の、小町の歌を「たきのゐて身をやくよりも悲しきは・・・」としていますが、「おきのゐ」の誤りです。おそらく変体仮名の「於」を「た」と見間違えたのだと思います。 

封内名蹟志についてもう少し詳しくみてみたいと思います。封内名蹟志には三種類の本があります。原本は漢文体で書かれた21巻の大書です。これを、一般にも読めるようにと佐藤信要本人が、3巻の漢字かな交じりに抄訳したのが「通俗封内名跡志」です。3種目は、甘柿舎主人こと 庄司惣七が、所蔵していた原本21巻を漢字かな交じりに翻訳した本です。仙台叢書の「封内名蹟志」は、惣七訳の翻刻になっています。この内「通俗封内名跡志」は写本があるので見てみたいと思います。

通俗封内名跡志 佐藤信要著 1巻45  宮城県図書館

通俗封内名跡志 佐藤信要著 1巻45  宮城県図書館

(画像をクリックすると大きな画像が出ます)

 八幡村
 興井
  農家に小池有池の中に景なる石有是を昔よ
  り興の石と称す二條院讃岐か沖の石の歌は
  此石の事にハあらす           [此石に事][に]見せ消ち右に[の]
’’ 
 興井郷(おきの井のさと)
   此村の事也或文字起居郷にも書也    [起居(おきい)]
   
   従二位範家卿
   郭公起居の里ハ過ぬ也いかなる人の夢結ふらん
’’
 皇都嶋(ミやこしま)
  小町の歌をもつて熾井都嶋同所興の石を都嶋
  とす
   昔陸奥国にて男女ありけりおとこ都へ
   いなんと云此女いと悲しうて馬のはなむけ
   せんとておきの井都嶋といふ所にてさけ
   のませて
 古今           小町
  おきの井て身をやくよりも悲しきハ都嶋へのわかれ也けり

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上記の「興」と「奥」をピックアップすると次のようになります。

通俗封内名跡志 佐藤信要著 興の井 奥細道
通俗封内名跡志でも、「興」と「奥」は明確に区別されています。(奥細道  1巻46) 

以上のことから、 「風土記御用書出」「代數有之御百姓書出」にある「奥の井」「奥の井の里」は「興の井」「興の井の里」を誤読した可能性が高く、「奥井守(おくのいのもり)」も「興井守(おきのいのもり)」を誤読した可能性が高いと思われます。
  仮にこの文書では「オキ」に「奥」の字を充てていたとしても、「奥井守」だけ「オク」と読むのは不合理なので、「奥井守」は「おきのいのもり」と読むのが自然であるように思われます。

ところで、通俗封内名跡志では、興井について「農家に小池有池の中に景なる石有是を昔より興の石と称す二條院讃岐か沖の石の歌は此石の事にハあらす」と、興の石と二条院讃岐の沖の石の歌の関連を完全に否定しています。しかし、仙台叢書の「封内名蹟志」ではどういうわけかこの部分が全く書かれていません。抄訳の「通俗封内名跡志」に書かれていいるのに全訳の「封内名蹟志」に書かれていないのは大変不自然なことです。もっとも、「奥羽観蹟聞老志」「封内風土記」ともに、「俗子以為二條院讃岐沖石ノ詠ハ則指2此石1者也」とあるので、もともと二条院讃岐の歌と「興の石」の関連は学問的には否定されていたということになります。この他にも、「鹽松勝譜」には「沖石 沖ノ井ノ傍小池中ニアリ。其石二丈余。土人誤テ源三位頼政ノ女。讃岐ノ賦スル所ノ石ト為ス。」と書かれています。また「嚢塵埃捨録」でも両者の関係を否定しています。(資料4.5 参照)

しかし先に見た、曽良の名勝備忘録には「所ニテハ興ノ石ト云」とあり、桃隣の陸奥鵆にも「処の者ハ 沖の石と云」と書かれています。そして松尾芭蕉は奥の細道でこの場所を「沖の石」と紹介しています。おそらく興井守は観光客を案内する際、「興井」と二条院讃岐の「沖の石」とを関連付けて説明していたのではないかと思います。それは、仙台藩がこの場所を「興井」「沖の石」の名所と認定したことによるものだと思います。そして現在も現地の案内板やインターネットの公式サイトで、「二条院讃岐などが和歌に詠んだ歌枕ゆかりの地」と紹介されています。

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資料1

宮城県史 24巻 風土記
風土記御用書出   宮城郡陸方八幡村[多賀城町] p398-p404
代數有之御百姓書出 宮城郡陸方八幡村[多賀城町] p404-p405

風土記御用書出   宮城郡陸方八幡村[多賀城町]
              仮肝入 榮 吉
                宮城県図書館所蔵

   八幡村
・・・・・・・・・・略
   奥の井
    古歌             小野小町
    奥の井に身をやくよりも悲しきハ都嶋への別なりけ
    り
   右奥の井守寛文九年 肯山様御代より被仰渡町屋敷御百姓
   平吉六代以前之祖父平兵衛代より相勤來右ニ付只今ともに
   諸役御免被成下候事
  久蔵様御家中
  十貳軒丁之内 一都嶋
   右古歌前ケ條ニ御書上仕候事
  一奥の井の里
    古 歌                範家卿
    ほとゝきすおき井の里は過ぬなりいかなる人の夢む
    すふらん
                     よみ人しらす
    衣うつきぬたの音をしるへにておきゐの里を尋つる
    かな


    
代數有之御百姓書出 宮城郡陸方八幡村[多賀城町]
              仮肝入 榮 吉
               宮城縣圖書館蔵
  代數有之御百姓
         町屋敷   奥井守 平 吉
右平吉儀先祖郷古助右衛門已前之名前代數幷何方より當所江取
移候義共相知不申候助右衛門義慶長年中より當村肝入相勤候由
申傳候間右助右衛門代より御書上仕候事
 先祖 肝入 郷古助右衛門 二代 助右衛門
                 子 肝入 郷古助左衛門
              三代 助左衛門
                 子 肝入 郷古 助 八
右助八代迄三代肝入御用相勤申候處被仰渡候何月幷在役年數共
相知不申候事
              四代 助八子肝入
                 幷奥井守  平兵衛
右平兵衛義寛文元年肝入御用被仰渡相勤申候處同九年 肯山様
當村奥井御取立畑代四拾八文之所御用地ニ被召上御辨當場共ニ
御拵罷成右平兵衛直々奥井守被仰付其身持高三貫三拾文ゟ出御
蔵入小役御人足御合力被下置肝入幷奥井守共元禄二年迄貳拾九
ケ年相勤申候事
 五代 平兵衛子        六代 平左衛門子奥井
    肝入幷奥井守 平左衛門    守大肝入幷肝入 平兵衛
右平兵衛義元禄二年肝入幷奥井守共被仰渡相勤申候処亨保十一
年 獅山様御代願之上持高諸役御免被成下亨保十五年九月當郡
陸方大肝入被仰渡寛延二年迄四十三ケ年両役相勤申候事
              七代 平兵衛子
                  奥井守 平左衛門
右平左衛門義寛延貳年奥井守被仰渡四代目平兵衛御合力之通持
高ゟ出ル御蔵入小役御人足被下置安永二年迄貳拾五ケ年相勤申
候事
              八代 平左衛門
                 子奥井守 平 吉
右平吉義安永二年三月父跡役被仰渡今以相勤罷在申候事
右之通先祖郷古助右衛門代ゟ當平吉代迄八代御百姓相續仕肝入
御用祖父平兵衛代迄引續右平兵衛義は大肝入御役迄相勤申候四
代目平兵衛代より奥井守被仰渡當平吉代迄五代相勤申候事
    以上 壹人
右代數之内御賞事又ハ家ニ付持來候武具等無御座候事
右之通風土記御用ニ付此度相改御書上仕候 以上
  安永三年九月

 

注:八幡村の肝入であった「郷古助右衛門(ごうこすけえもん)」を初代とし、4代目の「平兵衛」が寛文9年に「興井守」に任命される。任命したのは肯山公(伊達綱村)であるが、当時11歳であるので、この地を歌枕に認定しようと考えたのは、綱村本人ではない可能性が高い。6代目の平兵衛は大肝入となり郷古家は隆盛を極めたようである。しかし7代目の平左衛門、8代目平吉は興井守のみで、肝入にもなっていない。

 

資料2

仙台叢書 8巻 封内名蹟志  解題

 封内名蹟志の原本は。仙臺藩士佐藤信要の著にして。仙臺封内凡二十一郡内の。名所・舊蹟を記したるものなりしが。元来漢文なれば。婦幼等の誦讀理解に。便ならざることを恐れ。宮城郡原の町。甘柿舎主人庄司惣七が。其所藏の原本に就いて。之を國文に譯したるものは。即ち此書なり。此書の原稿は。庄司氏が篤志によりて。宮城縣圖書館に寄贈したりしものを。謄寫したれども。謄寫の誤り蠧触の所などもなきにあらざれば。虗白を以て之を埋めたり。宜しく諒察すしたまふべし。
 庄司氏。名は惣七。箕風と號し。其居に名て甘柿舎といふ。家資素より豐富なれば。讀書を好み。書畫を愛し。以て樂となせり。故に其家多く幅軸と書籍とに富み。藏書家藏幅家として。世に稱せらる。而して。書籍の如きは。私有すべからず。宜しく公衆の閲覽に供すべしとの。豫告ありし事とて。孫惣松其遺志を繼承して。其全部を宮城縣圖書館に寄贈したり。其數凡そ六百零八部。二千四百三十八册なり。是實に大正七年十二月廿七日なりとす。

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資料3

八雲御抄 五巻 里  

おきゐの里(おき井の里)

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資料4
 
嚢塵埃捨録 大場雄渕 仙臺叢書七巻  archive.org
 
奥の井。同村三里三拾四町五十三間。     [同村]八幡村のこと。
小金澤屋敷。
有2古井1爰に沖の石とて。四方三間余に見ゆる石あ
り。立石伏石・流石抔云。さま/\に組合せたる石
なり。其上へ二松と榎の有レ樹。最初は邊に竹垣を
結廻して置けるか。此頃傍に堀を掘り又上に埋隠
たるをも顯し。是に向ひて太守公の御假屋抔建ら
れしなり。是を鹽干に見えぬ沖の石なりと。人の云
事あれ共。さはなくしてこれは。奥の井と云所なり
二条の院讃岐鹽干に見えぬ。沖の石とよみしは非2
名所1。沖の石迄なり。此石は奥の井と書り美敷石な
り。
                 小野小町
古今集
 奥の井て身を焼よりも悲しきは都島江の別れな  [都島江] 注2
 りけり。

注:この文書には翻刻の際の「奥」と「興」の誤読と、筆者本人の「沖の石」と「興の井」との混同などがあるようで意味が通じにくい。
「沖の石とよみしは名所に非ず。沖の石迄なり」とは、沖の石という詞は「名所」ではなく「単に、沖にある石という意味である」ということか?
「此石は奥の井と書り美敷石なり。」というのは、奥羽観蹟聞老志の「八幡農家中有2小池1池中奇石礧々佳状可レ 愛 州人古来稱メ曰興ノ石ト  奇絶如2盆池1池中ノ乾隅有2水脈1出ツ是乃興ノ井也」と取り消し線の部分を読み飛ばしたと考えれば「此石は奥の井と書り」という不合理な表現の説明となるかもしれない。この混乱部分は資料5の「奥州名所図会」では意味の通じるように改善されている。

注2:[都島江][都島べ]の誤り。
「へ(e)」は「屁」を連想させることから「江」の字を用いる場合があった。
この歌は本来「都島辺(べ)の別れ・・・」とするのが一般的であるが、当時は濁点表記がなかったので、雄渕は「都島へ(e)の別れ・・・」と考えたのだろう。

資料5

奥州名所図会 初編巻之一 大場雄渕  文政12年(1829)頃
日本名所風俗図会1 奥州・北陸の巻 角川書店 p200-201
 
奥州名所図会
興の井ハやはた街の
南農家の背戸に
あり池水に満干あ
りて水草多く
夏日猶佳興
なり

 ○興井石(おきノいノいし) 八幡の郷、いはゆる興の井の郷なり。農家の後園に井池あり。地中に奇石あり。形状図の如く尋ねざるべからず。また土人曰く、彼の奇石あるの池を去る事一丁ばかり東、八幡宮の正西にあたりて、方一丁にあまれる石あり。その上に水草繁茂す。また、その処潮汐の気味ありとぞ。されど東遊の好士、みだりに田畔を踏みあらし、道を求めて、農事を妨ぐるによつて、郷中一同に秘して語らずと言ふ。かくの如き情薄きしれわざは、月花を友とする者の為すべき事にもあらず。さらば、諸国一見のため通行する一向無下の俗物の行跡なるべし。またこの石の上の水を筆にそそぎ、物をかくに乾きて、薄墨いろになる。よつて、土人うす墨石と言ふ。これ古の沖ノ井なるべし。
 
注:挿絵に「池水に満干ありて」と書かれているが、「みちのく行」にも「汐のミチヒ池上にアラハル」と書かれている。この部分は、興井守の観光案内なのかもしれない。「古の沖ノ井」について書かれているが、これは、先の資料4の混乱を整理した部分であろう。二条院讃岐の歌を取り除いたことで、意味が通じている。「旅の者が田畔を荒らすので、その場所を教えない」というのは、奥の細道の「信夫文知摺」の話と似ている。
 
おくのほそ道 素龍筆 井筒屋本 14a
里の童部の来りて、教へける、
昔は、此山の上に侍しを、往来(ゆきき)の人の、
麦草をあらして、此石を試侍を
にくみて、此谷につき落せば、石の
面、下(した)ざまにふしたりと云、さもある
べき事にや 

松島紀行 大津直定
茨城県立歴史館 32
それより一町計行て百姓郷古平左衛門といへる者の
庭に沖の井と云所あり十間四方程の内に黒石たく
さんに有て都嶋の都石といふよし往古は海なりと
見えて石面に蠣壳(かきから)多く付てあり此石硯に宜しく國
主よりの留石なれり此あたり都て八幡村といふ善知  
鳥(うとう)の謡の文句に末の松山浪あれて袖に浪こす沖の
石又ハ干かたとて海越(うミこし)成し里迄もと諷(うた)ひしハ云か
けの文句にて此邊に沖の石といへるハなし沖の石
とハ若州西小河といへる山の後の海辺にあり是二
条院讃岐近流の地也讃岐村といふあり讃岐の
墳墓あり考るにさぬきハ源三位頼政卿の息女也
頼政宇治川の端にて自殺の後に讃岐近流となり
しにや我袖は汐干に見えぬ沖の石といへる哥ハ述
懐の哥なるを千載集十二恋の部に出されしは
俊成卿の情なるへし實ハ讀人しらずと有へき人なり
しを近流以前の詠哥にして名をあらはし給ふなる
へし八幡村の先キ紅葉山といふありはや松島も次
第に跡に遠さかり名残をしさのまゝ
  数/\の日を松島に尋来て
   とまりもやりて帰る岩波  直定

2020年9月8日火曜日

松島往来と奥の細道(明和板)と早大本と昔安本について

教育用の書物に往来物というジャンルがあります。往来とはもともとは、往復書簡のことを意味したようですが、江戸時代頃になると、教育用の書物全般を指すようになったようです。
その往来物の中に、「松島往来」という本があります。全文を下に載せました。一読すればわかるように、これは、松尾芭蕉の奥の細道の日光から象潟までの部分の原文を切り繋いで要約したものです。ただ、文末はいわゆる「候文」に変えられています。

松島往来は、天明八年(1788)に出版されました。これは奥の細道の寛政版が出る少し前で、明和版が出回っていた時代に当たります。先に、蕪村の奥の細道と明和版との関係を見ましたが、明和版には、元禄版にはない特徴があります。それは「那須与一の場面」の「ハ」の脱落です。(参照 与謝蕪村 奥の細道画巻の底本について Part.1)

元禄版08a.08-08b.01
与市扇の的を射し時別してハ 我国氏神正八まんとちかひしも
元禄A・B・C 元禄K 元禄R 元禄SI 元禄G1・G2 元禄TZ 元禄KM

明和版08a.08-08b.01 (参照ページ)
与市扇の的を射し時別して・ 我国氏神正八まんとちかひしも
明和G 明和I 明和R  明和H 明和HO 明和W 明和N

松島往来04a

与市扇の的を射し
とき別而我国氏神 [別而(へつして)]
正八幡と誓ひしも此

上記のように、松島往来でも「ハ」が脱落しています。このことから、松島往来は明和版の影響を受けているという結論になると思うのですが、ところが、これがそう単純ではないのです。実は、「ハ」の欠落は、明和版よりも先に書かれた早大本・昔安本にも見られます。


早大10b.08 別而我国 [別而(べつして)]
昔安04b.01 別して我國

松島往来は早大本の「別而」と同じ表記になっています。これだけならば、偶然と見ることもできるかもしれませんが、松島往来にはもう一箇所、留意すべき表記があります。

松島往来15a

南に鳥海(とりのうミ)天を
さゝへ西はむや/\の

松島往来では、「鳥海(とりのうミ)」と仮名が振られています。しかし「鳥海」は「鳥海山(ちょうかいざん)」のことなので、仮名を振るならば「鳥海(てうかい)天をさゝへ」とするのが一般的です。もしかすると、松島往来の作者は、「鳥海」を「鳥海山(とりのうみやま)」という名の山と考えていたのかもしれません。

この部分について、昔安本では「鳥の海」となっています。


上記のように、昔安本では「鳥の海天をさゝえ」となっており、文意が通じにくくなっています。

早大本(26a.06-07) ・通解(3.25a.08)・版本37b.07(元禄A)では、「鳥海天をさゝえ」となっています。

「鳥の海」という表記は、これより少し前にも出てきます。



昔安19b.05-06
雨朦朧として鳥の海の山にかくる

通解3.22a.03-04
雨朦朧として鳥の海の山かくる

版本36b.07 (元禄A)
雨朦朧として鳥海の山かくる

早大本はこの部分が脱落し、松島往来ではこの部分は省略されています。

昔安が「鳥の海」となったのは、「鳥海」が「鳥海山」という山の名であることを知らなかったため、無理やり「鳥の海」としたのかもしれません。
通解は、和漢三才図会などを引いて、「鳥海山」について詳しく述べていますので、「鳥の海」としたのは、昔安系統の底本を尊重して、「鳥の海山」と考えたのかもしれません。

以上、先の「ハ」の欠落と「鳥海(とりのうミ)」との表記から、松島往来は、明和版の影響よりも、早大本系の影響を受けているのではないかと推測できます。(参照 奥の細道系統図)

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資料

・松島往来 天明八年(1788)版  東叡山麓下谷竹町 花屋久治郎板
・松島往来 文政四年(1821)版 東叡山麓下谷竹町 花屋久治郎板
・松島往来 仙台板 文化四年六月(1804)  仙台国分町十九軒 池田屋源蔵板
・松島往来 仙台板 文化十三年(1816)版  仙台国分町十九軒 池田屋源蔵板

仙台版は、日光から宮城の手前までをカットして、新たに宮城の名所などを書き足しています。また、仙台版の文化4年版は、「恐惶謹言」で終わっていますが文化13年版は「穴賢」で終わっています。

松島往来(新編松島往来)  
天明八年載戊申十月吉日
滕耕徳 編書
書林 東叡山麓下谷竹町 花屋久治郎板
所蔵者 東京書籍株式会社附設教科書図書館 東書文庫

00a
天明八年板
新編松嶌往来

00b
松島往来
扶桑第一之好風

01a
実方中将東にて阿古屋の松
見まほしく五十四郡あまねく尋
けるにしれがたくてむなしくかへらんせし
折から賎しき樵夫のやすらひ居 [賎(いや)しき][賎]は[旅]と読める
けるにもしやと問れけれバ打うなづきて
みちのくのあこやの松に
木かくれて
いつへき山の出も  [いつへき山]は[いつへき月]の誤り
やらぬか
といふ哥にて尋給ふなるべし
それハ出羽奥州一國の時の
事なり今二ケ国にわかれ
たれバ出羽にこそ
あれと
申せし

注:平家物語  2巻
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2543843/78
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2543843/79

01b・・・略

02a
松嶋往来
去頃奥羽暦覧い [去頃(さんぬるころ)]
たし此程令帰府候 [此程令2帰府1候][此程帰府令(せしめ)候]
長途無恙旅行を [無レ恙][恙無]
誓ひ奉らんと恐れ
02b
多くも先日光山を
拝し候往昔此御山を [往昔(むかし)]
二荒山と書しよし
空海大師開基の
とき日光と改め給ふ
03a
とかや千歳未来を
悟り給ふにや今此
御光一天に輝き
御宮の結構言語
道断申も中/\愚也
03b
中禅寺黒髪山華
巌滝霧降の瀧 [華巌滝(けこんかたき)] [巌(ママ)]
裏見の滝等打眺め
下山いたし那須野に
かゝり玉藻前の古
04a
墳同所八幡宮ハ那須
与市扇の的を射し
とき別而我国氏神
正八幡と誓ひしも此
御神と承候得者 [候得者][そうらへば]
04b
感應殊尊く覚候 [感應殊(かんをうことに)]
殺生石は山陰に
有り石の毒氣に
今亡びす又清水 [毒氣にレ今亡びす][毒氣今に亡びす]
流るゝの柳ハ蘆野ゝ
05a
里に有之相尋候 [有レ之][之有]
夫より白川の関路ニ
懸り爰にて道しる
べのものをかたらひ
承り候得者此関は [承(うけ給り)] [候得者][そうらへば]
05b
三関の第一也とかや
能因頼政の詠哥
なと存出し木々の梢 [存出(そんしいだ)し][存]判読難
半紅葉猶更絶感候 [絶感(たえかんニ)候]
かつミ刈浅香の沼は
06a
いつくの程にやさたか
ならす候忍ふの里へ
立こえしのふもち
摺の石を尋候へ者 [候へ者][そうらへは]
山陰に石は半土に [半土(なかはつち)に]
06b
埋れて哀れにもまた [埋(うつも)れて]
したはしく候是より
伊達の大木戸白
石の城を過笠嶋の [白石(しらいし)]
郡に入藤中将実方
07a
の塚岩沼の宿ニ着て
名に應ふ武隈の
松は枝葉左右に [枝葉(しゑう)]
別れて秋の最中(もなか)
といへとも千歳の色を
07b
現し名取川を
渉て仙薹の府に
至り宮城野の萩ハ
今程盛と咲乱れ猶 [今程(いまを)]
奥深くたとり行は
08a
十府の菅菰その邊
多賀の古城壺碑 [壺碑(つほのいしふミ)]
恵美朝臣修造して
天平寶字六年と
有之苔に埋れて [有レ之][之有] [埋(うも)れ]
08b
文字幽也野田の
玉川沖の石末の
まつ山猶塩竃の
明神へ参詣本社
廻廊瑞籬盡美候 [瑞籬(たまかき)] [盡レ美][美を盡(つくし)]
09a
大社就中珎其 [就中珎(なかんつくめつらしき)]
神前之燈篭文治
三年和泉三郎
寄進と有之六百 [有レ之][之有]
年来の俤眼前に浮 [浮(うかミ)]
09b
義士の勇名そゞろに [勇名(ゆうみやう)]
馨しく候則其地より
扁舟に棹し八百
八嶋の眺望誠ニ松島ハ
扶桑第一の好風と [と] 
10a
賞し爰に漂ひ彼に [彼(かしこ)に]
着及黄昏雄島崎へ [黄昏(くはうこん)] [雄島崎(をしまかさき)] [及2黄昏1][黄昏(くはうこん)ニ及] [1点]脱
登候得者明月ハ海 [候得者][そうらへは]
上に浮ミ其佳景入
仙歟と被奇候夫より [入レ仙歟と被レ奇候][仙ニ入ル歟と奇被(あやしまれ)候] [被]は[無]に見える。
10b
瑞巌寺に詣當寺ハ
真壁平四郎出家し
入唐帰朝の後開山
とかやこれより平和泉
古戦場に至り秀衡
11a
の舊跡ハ田野と成て
金鷄山のミ形を残す
先高舘に上れハ衣川ハ [高舘(たかたち)]
泉ケ城を廻り大河に
落入る衣関光堂 [衣関(ころもかせき)]
11b
此邊見所多候岩 [此邊(このへん)]
手の里より南部路に
かゝり深山幽谷を [深山幽谷(しんさんゆうこく)]
経て山形領に出る
最上川は陸奥より出 [陸奥(むつ)]
12a
酒田の海に入る左右ハ
山覆ひ頃は中秋の
末に至諸葉黄落
漲る水に浮て竜田 [浮(うかミ)]
川も斯やと計覚候
12b
刈出す稲舟ハ矢よりも
はやく白糸の瀧ハ
紅葉の際/\に落て [紅葉(もミち)]
錦を晒かことく其興
難盡残多候得共 [難レ盡][盡難] [難盡(かたくつくし)]とある
13a
爰をも立て羽黒山
月山湯殿山江詣候
是を三山と申候由
此山中の事他言を
禁候得者具ニ不著候 [禁(いましめ)] [不レ著][著不(あらハさす)]
13b
谷の傍に鍛冶小屋
あり此国之鍛冶
霊水を撰て釼を打 [打(うつ)]
終に月山と銘を切 [終(つゐ)]
世に賞せらるゝ然而 [然而(しかふして)]
14a
江山流水の日数
を盡して已象泻に [已(すてに)]
赴候先能因嶋に
船をよせ三年幽居
の跡を尋ね向ふの
14b
岸に上れハ西行
法師の花のうへ
漕くと詠れたる
桜の老木此所より [老木(おいき)]
見わたせは風景ハ
15a
一眼の中に盡て
南に鳥海天を [鳥海(とりのうミ)]
さゝへ西はむや/\の
関路を限り東に
堤を築て秋田へ [築(つい)て] [秋][火+禾]
15b
通ふ道海北に構へ [海北(かいほく)]
浪うち入る所を汐
越と申候江のわたり
一里計其気しき
松嶋に似て又异也 [异(こと)也]
16a
まつ嶋は笑ふか
如く象泻は恨か
ことしとハ今こそ
想像候猶紀行 [想像(おもひやられ)候]
校合出来候者可入 [校合出来(きやうかうしゆつたい)]
16b
御覧ニ候恐惶謹言 [可レ入2御覧ニ1候][御覧ニ入可候]

月日

滕耕徳編書
 

2020/09/08
2021/01/24 改

2020年8月21日金曜日

東国名勝志と松島名所文章 壺碑の絵の流用について

下記は東国名勝志の「壺の石碑」の場面です。

東国名勝志 作:鳥飼酔雅 画:月岡丹下(月岡雪鼎) 宝暦十二年(1762) 国会図書館
東国名勝志 作:鳥飼酔雅 画:月岡丹下 宝暦十二年(1762)
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この絵が次の本に流用されています。

松嶋名所文章(松嶋名所文庫)  文政四年(1821) 再板 東京書籍図書館
松嶋名所文庫 文政四年(1821) 再板
(画像をクリックすると大きな画像が出ます)

画に添えられている文章は、東国名勝志では、多賀城碑と坂上田村麻呂の伝説を結びつけるために、アクロバティックな解釈と改変が行われているのですが、松嶋名所文章では、ほぼ正確な多賀城碑の文言に差し替えられています。(下記 資料1.2参照)

また、松嶋名所文章は往来物ではありますが、本文は、松尾芭蕉の「松嶋賦」が用いられています。

松嶋名所文章の右下に「東玉画」とあります。

東玉画

この記述から、この画の作者を「黒男亭東玉」とするのが一般的なようです。
国会図書館サーチ

黒男亭東玉は、「浅草詣文章」という本に名を刻んでいます。

浅草詣文章 作:中原耕張  画:黒男亭東玉画 享和二年(1802) 東京書籍図書館
浅草詣文章 作:中原耕張  画:黒男亭東玉画 享和二年(1802)

黒男亭東玉と月岡丹下が同一人物である可能性も考えてみましたが、両者では画風がかなり違うように思います。
 
どうしてこの絵を流用したのかは謎と言う外ありません。

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資料1
東国名勝志 作:鳥飼酔雅 画:月岡丹下 宝暦十二年(1762) 
国会図書館 巻1. 10b

壷の石碑

みちのくの おくゆかしくも 
 おもほゆる  つぼのいしぶミ 
  外の はま風 
當國の名碑也此石高サ六尺
幅三尺厚サ一尺五寸也
神亀元年大野朝臣東人の
築所也其後田村丸又改爰を
日本の中央として碑の表に諸方への
道法をしるせり [道法(みちのり)]

緒絶の橋
人こゝろおだへの
      はしに
       立帰り
木の葉ふり
    しく
     秋の
      かよひ路
      
戸だへのはし共
丸木ばしとも
よめり東路のとだへ白玉のをだへ
みちのくのとだへとも
 いづれもあやうきさまを
         よめり
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資料2
松嶋名所文章(松嶋名所文庫)  文政四年(1821) 再板 東京書籍図書館

     去京一千五百里
     去蝦夷国一百廿里
多賀城  去常陸国四百十二里
     去下野国二百七十四里
     去靺鞨国三千里

此城神亀元年歳次甲子
按察使兼鎮守府将軍
從四位上勲四等大野朝臣
東人之所置也
天平寶字六年歳次壬寅
参議東海東山節度使
從四位仁部省卿兼按
察使鎮守府将軍藤原
恵美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日


※橋の説明書きは「をたへの橋」と書かれているはずですが、「を」が判読困難です。

松嶋名所文章では、東国名勝志の「緒絶の橋(おたへのはし)」の説明文を削除し、「多賀城碑」の文面に差し替えています。そして、川にかかる橋のところに、上記の説明書きが書き加えられています。
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参考ページ
松尾芭蕉の壷碑と多賀城碑について
多賀城碑 三船真人と見雲真人と三熊野ノ松戸
 

2020年8月10日月曜日

多賀城碑 三船真人と見雲真人と三熊野ノ松戸

文化二年(1805) 山口町(現在の山口市)の豪商、安部四郎右衛門が奥州旅行をした時の道中記が残っています。[詳しくは、「けやき会」翻刻解説 奥州旅日記 山口文書館] 

旅の中で四郎右衛門は、多賀城碑も訪れているのですが、そこにとても興味深い記述があります。

みちのく行  p52
三熊野ノ松戸筆也
▲壷碑 多賀城跡也

三熊野ノ松戸筆也とは、『この壷碑(つぼのいしぶみ)を書いた人物(能書家)は「三熊野ノ松戸(みくまのノまつど)」である。』 という意味だと思います。先に、壷碑の文面については詳しく見てきましたが、碑文に名前が出てくるのは、多賀城を創建した「大野朝臣東人」と、その後に多賀城を修造してこの碑を建立した「藤原恵美朝臣朝獦」の二人だけです。では、この能書家の名前はどこから出てきたかというと、それは「日本総国風土記」からではないかと思います。

壼碑考(多賀古城壼碑考) 本郷弘斎(平信恕) 享保元年(1716年)
2.多賀城古城壼碑考 01b
日本風土記ニ曰。陸奥ノ國宮城ノ郡。坪ノ碑。有鴻
之池 今廢ス 為故ノ鎮守ノ門碑。恵美ノ朝獦立之。
見雲ノ真人清書也。記異域本邦ノ之行程ヲ。令ム
旅人ヲシテ不ラ為迷コトヲ塗ニ。

上記のように、日本風土記(日本総国風土記)では、碑を立てたのが「恵美ノ朝獦」で、それを清書したのが「見雲ノ真人(みくもノまひと)」と記されています。 そしてこの「見雲ノ真人」と「三熊野ノ松戸」の音を比べてみると、両者は非常に似ています。つまり、「みくもノまひと」が時を経るうちに「みくまのノまつど」と変容したと考えられるのです。

これとは別に、名前の変容については新井白石が佐久間洞巌との書簡で次のように述べています。

新井白石全集 5巻
 編集:市島譲吉 発行:吉川半七
p454 十一月十三日
・・・・・・・・・・・・・・・さて壷碑の事 見
雲真人のよしいかにも風土記の残編にて見及候き
此人いかなる人と御心得被成候やらむこなたに
てはたしかなるず候 真人と申すは天武の御時に定
られ候八姓の第一皆々皇子の別にて候 しかるに姓
氏録にも続日本紀にも見雲真人と申すは無之候
三国真人と申すは有之候 旧事古事 日本紀相考候
に天神と申す中に豊斟渟と申すを豊国野とも豊雲  [豊斟渟(とよくね)]
野ともしるされ候 むかしは国も雲も相通じ用ひ候
例多々に候上はミクモミクニ一声の転と心得候て
さて神亀天平の比の三国真人の姓の人ことごとく
伝記考見候にものよくかき候と聞へ候人無之候
淡海真人三船の事は天下第一の能書文章の名候よ
したしかに続日本紀に見へ候て三船真人[を御船真人]ともしる [を御船真人]脱を他版で補う
され候見へ候むかしは文字にかゝはらずして字の
声にて通用よのつねに候見雲真人は疑もなき淡海
真人三船の事を転写あやまり候て船と申す字を雲
なとかゝれ候を楷書にきと雲に作り候故に日本に
なき人のごとくになり候事とこれらの類も老拙考
置候事に候如何それに思しめしよりも候やらむ時
代はひしと合候名だかき善書勿論に候

要約すると、白石は、『日本総国風土記にある「見雲真人」について色々な書物にあたってみたが「見雲真人」という名の人物は見当たらなかった。しかし「三国真人」という人物ならいる。「見雲(みくも)」と「三国(みくに)」は、音が一つ違うだけなので、この人物なのかもしれいと考えたが、壷碑の建立された時代の能書家で「三国」という人物は見当たらなかった。しかし当時「淡海真人三船」という天下第一の能書家がいた。この人物こそが「見雲真人」であろう。おそらく、三船真人を転写する際に、船の文字を雲に近い字体で書いたため、楷書にした際に船を雲と取り違えてしまったのだろう。』と言っています。

新井白石の説を信じるならば、「三船真人(みふねノまひと)」を書き間違えて、「見雲真人(みくもノまひと)」となったということになります。そして更に安部四郎右衛門の道中記によれば、「見雲真人(みくもノまひと)」は「三熊野ノ松戸(みくまのノまつど)」に変容したということになります。

これらの変容は、書誌学的にも民俗学的にも大変興味深いものですが、しかしこれには大きな問題があります。それは前にも書いたように、「日本総国風土記は偽書である」という問題です。日本総国風土記は、奈良時代前後に編纂された地誌とされているのですが、17世紀に作られた偽書であるというのが現在では定説になっています。
 つまり偽書である総国風土記にしか載っていない見雲真人が、三船真人と同一人物ということがありえるのか? というのが問題となります。また、四郎右衛門は「三熊野ノ松戸」をどうやって知ったのか? という問題もあります。まず、四郎右衛門の道中記をもう少し見てみたいと思います。

四郎右衛門の道中記には、四郎右衛門が壷碑を訪れる前に「沖ノ石」を訪れていることが記されています。

みちのく行  p52
▲沖石   ○今ハ里中也トトモ汐の
      ミチヒ池上ニアラハル
 わかそてハ 汐干に
    見えぬ・・・・の
        ひとこそしらね かはくまも なし
右ハ 
 江古平吉ト云ル百姓ノ庭上也
 此男諸役御免トソ○此家ニテ   注:[○家ニテ][ニテ]判読難
 昼飯ヲ乞テ直ニ案内ヲ平吉ニ頼
 是ヨリ壷ノ碑三十丁計有

江古平吉について、「此男諸役御免トソ」とあるので、平吉は仙台藩から沖ノ井(興ノ井)の管理を任された「興井守」ということがわかります。そして「昼飯ヲ乞テ直ニ案内ヲ平吉ニ頼」とあるので、壷ノ碑についての案内も平吉にしてもらったということになると思います。つまり、「三熊野ノ松戸筆也」という情報を四郎右衛門に伝えたのは平吉である可能性が高いということになります。すると、平吉はなぜ「見雲真人」を「三熊野ノ松戸」としたのかが問題になります。
 壼碑考が出版されたのが享保元年(1716)で、四郎右衛門が旅をしたのが、文化二年(1805)ですから、90年の歳月とともに変容したと見ることもできるかもしれませんが、しかしその間にも、壼碑考を観光案内用に簡略化した「多賀城址壼碑図」が大量に発行されており、これには日本総国風土記の「見雲真人」の記述もあります。「興井守」の平吉がそのことを知らないとは考えられません。
 想像をたくましくするならば、当時、日本総国風土記はすでに偽書と知られていたので、それを払拭するために、地域の昔ながらの伝承として「三熊野ノ松戸」という人物が知られていて、それが「見雲真人」である。というようなストーリーが作られていたのではないのか? と考えられるのです。

注:「風土記御用書出 宮城郡陸方八幡村 代数有之御百姓書出」に平吉の名前が載っています。平吉は安永2年(1773)に興井守の役を父親から継いでいます。
 ただ、「江古平吉」は「郷古平吉」の誤りです。郷古(ごうこ)は珍しい名字ですが、日本の中で宮城県が一番多くいるようです。
  四郎右衛門は平吉のところで昼飯を食べていますが、平吉の先祖が興井守に任命された時に、「御弁当場」も設置したとあるので、平吉の代にも食事ができる場所があったのかもしれません。
 「興井守」は宮城県史などの公式資料では「奥井守」となっていますが、「興」の字は崩し方によっては、「奥」と大変よく似ているので、風土記御用書出が明治期に浄書された際に誤った可能性が高いように思います。この点についてはもう少し詳しく見てみる予定です。

 翌日、四郎右衛門は塩釜へと向かい、その後安倍出雲守のもとを訪れています。

みちのく行  p55
一 廿九日快晴早朝 塩釜宮詣
  夫ヨリ安倍出雲守訪ヒ壷碑
  㕝相頼候事

四郎右衛門は安倍出雲守のもとを訪ねて、壷碑についてなにか頼み事をしたということなのですが、それはもしかすると、壷碑の拓本を所望したのかもしれません。また、四郎右衛門は、天明元年(1781)版の「多賀城址壼碑図」を入手しているのですが、ことによると、文化二年(1805)当時は在庫がなく、天明元年版を手に入れたのかもしれません。

注:安倍出雲守は、塩釜神社の神職、阿部出雲守のことであるようです。文久元年(1861)奉納の算額に名前が見えます。(同一人物かは不明) Google

再び、新井白石と佐久間洞巌の書簡について見てみたいと思います。書簡には白石の推論以外にも不自然な点があります。
佐久間洞巌は、正徳四年(1714年)に日本総風土記を書写しているのですが、目録の最後の部分に次のようにあるのです。

 p04
 白石先生曰看来レハ則此書難キ信者ノ往々有之盖贋書歟以テ可疑者多ヲ也

これを見ると、白石は日本総国風土記が偽書であると指摘しているのです。 しかし、先の書簡では、見雲真人は三船真人で間違いないとして、日本総国風土記について、「時代はひしと合候 名だかき善書勿論に候」とこの本が真正の書であると太鼓判を押しています。また、別の日の洞巌への書簡には次のようにあります。

新井白石全集 5巻 編集:市島譲吉 発行:吉川半七
p442 六月二日
一 風土記の事に付貴国の事しるし候は格別のものと
御聞候由此間其御用に懸り候人たづね来られ直談
承候に風土記は一冊も真の物は無之候 にせもの
どもに候と申され候さのみ奥ゆかしくも思召すま
じく候 我等新宅の辺よりも上り候ものはたしかに
承候 惣じて如此の事俗人の申す所わけもなきも
のにて候・・・・

つまり、『日本総国風土記について調べている人物が白石のもとにやってきて、風土記はすべて偽物だと語ったが、そんなことを言っているのは俗人であって、気にすることではありませんよ。』と白石は書いているわけです。

これらの書簡の白石の態度と、洞巌が書写した日本総国風土記の但し書きみられる白石の言葉は、180度違っています。これらの齟齬はどこから生じているのか? もう少し調べてみる必要があるかもしれません。
 
話は変わりますが、安部四郎右衛門は松島を訪れて道中記に残しているのですが、それは「松島賦」を敷衍しています。

みちのく行 p56
東南ヨリ海ヲ入テ江の内三里七十ニ峯
数百の 嶌々其名記スニイトマナク
ソハタツモノハ天を指 臥モノハ波ニ匍
匐アルモノハ二重 三重ニタゝミ負ル
アリ抱ルアリまかきか嶋ハあまの
小舟漕つれて肴わかつ声/\に
つなてかなしもとよミけむも宜
なるか 遥沖にハ白なミたちて松ニ
交ヘル花かとあやまたれ西に
法蓮密寺境内立わたり北に瑞岩禅寺
五大堂 月見嵜にハ大公秀吉公ヨリ
拝領の亭ありて松嶌風景○さらなれハ○凡
洞庭西湖を恥すと翁の文にも
書付侍りしとそ

森川許六が編纂した「風俗文選」宝永三年(1706) は好評を博し、その中に収められた「松嶋賦」は単独で本になっています。松嶋名所文庫 文政四年(1821) 再板。
四郎右衛門も旅行前に松嶋名所文庫や松嶋往来などは目にしていたのかもしれません。

2020年7月23日木曜日

多賀城碑と壷碑と日本総国風土記について

はじめに
 江戸時代17世紀に多賀城跡で発見された多賀城碑について、かつて真偽論争がありました。その偽作説とは、「多賀城碑は仙台藩の命を受けた佐久間洞巌 等により作られた偽作である。」というものでした。(現在では、偽作説は否定されている。) この真偽論争の発端は「多賀城碑」が「壷碑(つぼのいしぶみ)」と関連づけられたことにあるのではないかと思われます。多賀城碑は発見当初から壷碑と関連づけられていたのですが、しかしその根拠が曖昧で、「多賀城碑は壷碑ではない。」との批判が生まれ、更に「多賀城碑は偽作である。」というような論になっていったのではないかと思われます。

多賀城碑と壷碑(つぼほいしぶみ)
 そもそも多賀城碑とは何かというと、まず、京都・蝦夷・常陸・下野・靺鞨(まつかつ)から多賀城までの距離が示されています。そして多賀城は神亀元年(724)に大野朝臣東人により築かれ、天平寶字六年(762)に藤原恵美朝臣朝獦により修復されこの碑が立てられた。ということが書かれています。詳しくは 松尾芭蕉の壷碑と多賀城碑 参照
 では、壷碑(つぼのいしぶみ)とは何かというと、坂上田村麻呂が「日本の中央」と弓の筈で書きつけた巨大な石のことです。それは「ツボ」という地名にあったため壷碑(つぼのいしぶみ)と呼ばれるようになったということです。資料#1.参照

 両者はまったく違うもので、共通するのは「陸奥にある昔の碑」ということくらいです。 そこで、「遠碧軒記」などでは、多賀城碑の裏に田村将軍が「日本の中央」と弓の筈で書きつけた。としています。しかし多賀城碑の裏にはそのようなことは書かれていないので、実際に見ればすぐに嘘? であると分かってしまいます。また「壺」というのは地名ではなく、「城内の壺前栽」に立てられたので「壺」と呼ばれるようになった。というような理由付けがなされています。
 松尾芭蕉の奥の細道(完成本)では、多賀城碑と坂上田村麻呂の伝説とは全く関連づけられず、その理由の説明もなく、「壷碑 市川村多賀城ニ有」 としています。現在も多賀城碑は「壺碑」とも呼ばれることがありますが、そのほとんどは奥の細道と同じく、坂上田村麻呂伝説との関連づけはなされていないようです。
 このような中で、多賀城碑の疑念を払拭するために出されたのが、「壼碑考(コンひこう)」であるように思います。この本では「壺碑(つぼのいしぶみ)」の「壺」の由来は「壺前栽」であるということを前提として、「壺(つぼ)」の字は誤りで「壼(こん)」が正しい。という論を展開しています。
 しかしこれだけでは説得力が足りません。そこで「日本総国風土記(日本風土記)」が登場します。日本総国風土記は、奈良時代前後に編纂された地誌とされているのですが、17世紀に作られた偽書であるというのが現在では定説になっています。「壼碑考(コンひこう)」では、日本総国風土記を真正の書として、その記述を基に、多賀城碑が壷碑であることの根拠としています。そしてこのことが問題となります。偽書である日本総国風土記に、どうして「多賀城碑 」が載っているのか? しかも多賀城碑が発見されたのと、日本総国風土記が作られたのはほぼ同じ時期です。当然疑いの目が注がれます。「多賀城碑が壷碑であることを裏付けるために偽書を作ったのではないのか?」 更に疑いは深まり、「仙台藩は歌枕を認定するために、多賀城碑と日本総国風土記をセットで偽作したのではないのか?」 というような陰謀論のようなものにまで発展します。おそらく、多賀城碑が壷碑に関連づけられず、日本総国風土記の記述もなければ、多賀城碑偽作説は生まれなかったのではないかと思います。

 以上、多賀城碑と日本総国風土記との関係の概略を見てきましてが、次に「日本総国風土記」について詳しくみてみたいと思います。

壼碑考と佐久間洞巌の日本総国風土記の写本について

壼碑考は、次の5つの章から成っています。
1.東奥州宮城郡市川邑多賀城址壼碑全圖
2.多賀城古城壼碑考
3.碑面考證
4.壼碑審定説
5.題弘斎審定後 容軒源義和(佐久間洞巌) 誌

この中で、2.と4.に「日本総国風土記」の写しがあります。
 
壼碑考(多賀古城壼碑考) 本郷弘斎(平信恕) 享保元年(1716年)

2.多賀城古城壼碑考 01b
日本風土記ニ曰。陸奥ノ國宮城ノ郡。坪ノ碑。有鴻
之池 今廢ス 為故ノ鎮守ノ門碑。恵美ノ朝獦立之。
見雲ノ真人清書也。記異域本邦ノ之行程ヲ。令ム
旅人ヲシテ不ラ為迷コトヲ塗ニ。

4.壼碑審定説 05a, 05b,06a, 06b
風土記残篇百六
 陸奥國宮城郡(以下三百六十有ハ字在ス焉。) 畧ス于玆ニ
坪碑 有鴻之池。為故ノ鎮守府ノ門碑。恵美朝
獦立ツ之。見雲ノ真人清書也。記異域東邦之行
程ヲ。 令ム旅人ヲシテ不為迷コトヲ塗ニ。(自此至テ終ニ。一百有四字存ス焉。)

4.は正確な写しであり、2.は 本郷弘斎が手を加えたもののようです。
「今廢ス」は、「鴻之池という地名は今はない。」というような意味のようです。また「鎮守」は、「鎮守府」の「府」を削っていますが、これは、多賀城碑本文に「鎮守将軍」とあるので、それに合わせて「府」を削ったのかもしれません。
 しかしこれらの2.の変更については、何の説明もなされていないので、読者は2.を「日本総国風土記」の原文と勘違いしてしまいます。そのためこの後の多賀城碑関連で日本風土記が引用される場合、2.が多く用いられます。日本風土記を批判した、藤井貞幹の「好古小録」でも「今廢ノ二字其義通ゼズ」とこれを原文として批判しています。資料#2参照
  次に、壼碑考で用いた、佐久間洞巌の日本総国風土記の写本について見てみたいと思います。

日本総国風土記残編 写:佐久間洞巌 正徳四年(1714年) 宮城県立図書館
p72
日本総國風土記巻之百六 
 陸奥國宮城郡
 -----略
p73
坪碑 有鴻之池為故鎮守府門碑恵美朝  [有]の右に[在カ]との書き込みあり
獦立之見雲真人清書也記異域東邦之行
程令旅人不為迷塗

この洞巌写本は、田邉希賢の写本からのものです。希賢は京都の儒学者だったのですが、仙台藩に召し抱えられ仙台藩儒となります。佐久間写本の来歴に次のようにあります。

p77
右十有三國風土記残編者八幡社士栢村
某之所蔵也近方求之而摹寫焉時維正德
改元次辛卯臘月二十八日夜揮毫于神州
客舎燈下
             田邉希賢

「八幡社士栢村某之所蔵也」この記述からだけでは、何処の誰の所持する本を希賢が書写したのかわかりませんが、正徳元年12月28日(1712年2月)に書写したということはわかります。つまり、希賢写本が1712年、それを書写した洞巌写本が1714年、これを用いた壼碑考が1716年ということになります。

また、洞巌写本には、新井白石に総国風土記が偽書である可能性を指摘されたという記述があります。

 p04
 白石先生曰看来レハ則此書難キ信者ノ往々有之盖贋書歟以テ可疑者多ヲ也

これは、目次の部分に書かれているので、洞巌が書写した時にはすでにこれが偽書であるとの指摘を受けていたとみることができます。しかしこの本の最後に、洞巌の研究者? と思える人物のメモ書きがあります。

p80
本書は正德四年佐久間洞巌が田辺希賢
の蔵書を借りて書写したもので、壷碑の
筆者を見雲真人と考えるきっかけになった
ものである。日本総國風土記残編は江戸時代
初期までに成った偽書であることは当時新井白
石も指摘した通りである。洞巌も亨保五年前後
に白石からその旨教示を受けている、本書の目録
末尾の書入れはその頃のものであろう。
昭、四九、三         安倍

 このメモからすると、p04は亨保五年(1720)頃に後から書かれたということになります。洞巌と白石との書簡にそのような記述があるのかもしれません。しかし、p04を見た限りでは、後から付け足したようには見えません。

 総国風土記は偽書ということだけでなく、本文に後から手が加えられていたり、偽書と知っていて、真正の書として用いていたのではないのか? など色々な問題があるのですが、「恵美朝獦」の記述について更に不自然な点があります。次に総国風土記の13本を比較して見てみます。

a.日本惣国風土記 4巻 国会図書館
安政5(1853) 藤原正方写
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2566395/18
 
b.日本惣国風土記残冊 全 国会図書館 
嘉慶二年二月上旬(1388年) 左羽林郎藤原元隆
寶永六丑年三月下臻(1709年)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2539600/66

c.日本惣國風土記 
天正二年三月下旬(1574年) 権少外記中原忠胤 
高知県立高知城歴史博物館 山内文庫 ヤ291‐72
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100089512/viewer/49

d.残編風土記 早稲田大学 上田 百樹 
嘉慶二年乙丑七月下旬(1388年) 左羽林郎藤原元隆 (嘉慶二年は戊辰が正しい)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_03163/i04_03163_0223/i04_03163_0223_0002/i04_03163_0223_0002_p0050.jpg
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_03163/i04_03163_0223/i04_03163_0223_0002/i04_03163_0223_0002_p0049.jpg
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i04/i04_03163_0223/index.html

e.日本惣国風土記 第二冊 早稲田大学
嘉慶二年三月(1388年) 左羽林郎元隆
右以師家之蔵本書寫之 多田正仲
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_01494/ru03_01494_0002/ru03_01494_0002_p0048.jpg
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru03/ru03_01494/index.html

f.日本總國風土記 大和文華館   
嘉慶三年三月中旬(1389年) 藤原元隆
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100134947/viewer/118

g.風土記 奈良女子大学学術情報センター
安永八年巳亥季春(1779年) 荒木田神主経雅
安永八年巳亥十一月廿四日 本居宣長
安永九年庚子三月廿九日(1780年) 正五位度會神主正均
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100258230/viewer/54 

h.日本惣国風土記 全 早稲田大学 
寛文十年庚戌七月六日(1670年) 大納言源通村
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_03132/ru03_03132_p0042.jpg
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru03/ru03_03132/index.html

i.日本惣國風土記 茨城県立歴史館
天保九戊戌年九月十二日(1838年) 三村山人信
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100224244/viewer/154 

j.日本総国風土記残編 宮城県立図書館
享保七年壬寅之夏(1722年)  羽林中郎将吉村(仙台藩五代藩主)

s.日本総国風土記残編 巻之百六
嘉慶二年二月上旬 左中将藤原元隆
正徳改元次辛卯臘月二十八日(1712年2月5日頃) 田邉希賢
正徳四年甲年中秋八日(1714年9月18日頃) 五城楼下 源義和(佐久洞巌) 
仙台叢書. 第18(翻刻)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185931/107

t.壼碑考(多賀古城壼碑考) 本郷弘斎(平信恕) 享保元年(1716年)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2535767/4
奥羽觀蹟聞老誌  佐久間洞巌  初出:享保4(1719年) 
上記の壼碑考と同じ記述 (送り仮名など異なる部分もある)

y.奥州宮城郡市川村多賀城址壼碑圖 天明元年(1781年)
http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/ags/1-2-3-020b.jpg

1.
a.坪碑有嶋之地・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
b.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
c.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
d.坪?有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之 [?][石+里]
e.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
f.坪碑有嶋之地・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
g.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
h.坪碑有嶋之地・・・・・・為故鎮守府門碑恵美押勝立之
i.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美朝獦立之
j.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美朝獦立之
s.坪碑有鴻之池・・・・・・為故鎮守府門碑恵美朝獦立之
t.坪碑有鴻之池今廢・・・ 為故鎮守・門碑恵美朝獦立之
y.坪碑在鴻之池鴻之池名今癈為故鎮守府門碑恵美朝獦立之
2.
a.見雲道人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷塗
b.見雲真人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷塗
c.見雲真人清書也記異域東邦之行程令旅人不為迷塗
d.見雲真人清書也記異城本郡之行程令旅人不為迷塗
e.見雲真人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷塗
f.見雲道人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷塗
g.見雲真人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷塗 [域][城]上書き訂正か?
h.見雲真人清書也記異城本邦之行程令旅人不為迷塗
i.見雲真人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷途
j.見雲真人清書也記異域東邦之行程令旅人不為迷塗
s.見雲真人清書也記異域東邦之行程令旅人不為迷塗
t.見雲真人清書也記異域東邦之行程令旅人不為迷塗
y.見雲真人清書也記異域本邦之行程令旅人不為迷途

どちらが正しいかは別として、上記の「鴻と嶋」「池と地」「道と真」「城と域」「東と本」「邦と郡」これらは似た文字の写し間違いとみることができます。しかし「押勝と朝獦」は文字の類似はみられません。(押勝は朝獦の父親で藤原朝臣仲麻呂のことです。)
 朝獦と表記されている、i.j.s.t.y. のうち、j.は伊達從五位藏本で、田邉写本 或いは s.(佐久間写本)からの写本と考えられます。y.(多賀城壼碑案内図)は、t.(壼碑考)を基に作成されたと考えられます。つまり、j.s.t.y.は佐久間洞巌関係の写本ということになります。そして、i.を見てみると、「令旅人不為迷途」となっています。これはy.と同じ表記になっています。i.が書写された年代などからすると、i.はy.を参考にこの部分を書写した可能性が考えられます。また、押勝と表記されているa.~g.は、「押勝」の右に「朝獦」と誤りを訂正する書き込みがあります。

恵美押勝と恵美朝獦について
上記からすると、総国風土記ではもともとは「押勝」と表記していたのが、佐久間写本以降に「朝獦」に変更された疑いがあります。では、どうしてそうなったのか理由を考えてみたいと思います。
 多賀城碑の文面については以前詳しく見ましたが、多賀城碑を作ったのは「藤原恵美朝臣朝獦」です。しかし「獦」の文字は判読困難で、佐久洞巌の精巧な拓本により初めて判読できるようになったと考えられます。それ以前の「一目玉鉾」などでは、「藤原恵美朝臣」とされています。藤原恵美朝臣はいわゆるファミリーネームのようなもので、父親の押勝と息子の朝獦との区別がつきません。そこで総国風土記の作者は、有名な「押勝」を充ててしまったのかもしれません。これは、多賀城碑の文字が判読されていない内はよかったのですが、佐久間洞巌の拓本によりその文字が「朝獦」と判読されると、文面との齟齬によりジレンマが生じます。それは、碑の文面が正しいのなら、総国風土記が偽物であり、総国風土記の文面が正しいのなら碑は偽物ということになってしまうということです。そこで、田邉希賢 或いは 佐久間洞巌は、拓本に合わせて「押勝」を「朝獦」に改変したのではないかと考えられるのです。

 本郷弘斎や佐久間洞巌は、壼碑考で、[「今廢ス」の挿入。「鎮守府」を「鎮守」に変更。] を明示的(比較すればわかるという意味で)に行いましたが、最大の問題である「朝獦」への変更については写本そのものに変更を加えたということになります。この改変はかなり効果的で、本文と比べた場合、どこまでが改変か容易には見分けられません。先に見たa.~g.では、「押勝」を「朝獦」の誤りと訂正しています。訂正した者は、「本来は朝獦と記述されていたものが押勝と誤記されている。」と考えたということになります。つまり改変した佐久間写本がスタンダードとなっているのです。これは、y.(多賀城址壼碑圖)を大量に発行し、改変した総国風土記を世の中に広めたことも大きく貢献しているかもしれません。

芭蕉自筆 奥の細道の貼紙前の文章について
今回、総国風土記について調べてみて、佐久間洞巌の拓本以前には、「藤原恵美朝臣朝獦」の「獦」の文字は判読されてなかった可能性が極めて高いことが改めてわかりました。(下記一覧参照) しかし先に見たように松尾芭蕉の奥の細道の自筆本の貼紙の下には、「朝獦」を「朝狩」と解読した記述がありました。芭蕉が亡くなったのは、元禄7年(1697)で、佐久間洞巌が拓本をとったのは元禄十二年(1699)ですから、少なくとも2年以上前に芭蕉は「朝狩」と解読していたということになります。もちろん、続日本紀と多賀城碑を照合して「朝狩」を割り出すことは可能かもしれませんが、それは続日本紀の研究者でもなければ無理だと思います。この観点からすると、奥の細道の芭蕉自筆本は、壼碑考の出版された1716年以降に作られた可能性が高いように思われます。つまりそれは芭蕉の自筆本ではないことを意味します。 松尾芭蕉の壷碑と多賀城碑について 参照

芭蕉自筆 奥の細道 上野 洋三  櫻井 武次郎   岩波書店
本文篇 (貼紙の前の文章) p87
市川村多賀の城は往昔境守の
舘舎也つほの石碑このところに
あり凡竪七尺あまり横五尺
計にみゆ苔を穿て文字か
すかなり四維国界の道の数
里をきさむ造栄[営]鎮守苻
将軍陸奥守朝狩と有おなしく
安察使何某修造を加えて神亀
宝字六年霜月と印ス聖武
皇帝の御時にあたれり

藤原恵美朝臣朝獦 表記一覧
(松) 松島風土記 仙台市博物館調査研究報告 第15号
(遠) 遠碧軒記 下之三 著:黒川道祐 延宝3年(1675) 編:難波宗建 宝暦6年(1756)
日本随筆大成第一期 10 関根正直・和田英松・田辺勝哉監修 吉川弘文館 p147
(眺) 松島眺望集 大淀三千風  天和2年(1682)
(玉) 一目玉鉾 井原西鶴 元禄二年 (1689)
(日) 曽良旅日記 天理図書館善本叢書 和書之部 第10巻  [元禄二年五月八日(1689)]
(蕉) 壷碑写し おくのほそ道図譜 朝日新聞社編  [元禄二年五月八日(1689)]
(奥前) 芭蕉自筆 奥の細道 貼紙訂正前 岩波書店
(奥) 芭蕉自筆 奥の細道  岩波書店
(州) 奥州道中記 元禄7年(1694) 相愛大学図書館
(鵆) 陸奥鵆  桃隣 元禄10(1697) 早稲田大学図書館
(国) 国花万葉記  菊本賀保 元禄10(1697) 巻11 54a 54b 早稲田大学図書館
(続) 続俗説弁 井沢長秀 宝永5年(1708) (公益俗説辯)
(和) 和漢三才圖會 寺島良安 正德二年(1712年)
   巻第六十五図会 地部 陸奥國 国会図書館
(壼) 壼碑考(多賀古城壼碑考) 本郷弘斎(平信恕) 享保元年(1716年)

(松)寛文13年(1673)    藤原恵美朝臣朝䋵
(遠)延宝3年(1675)    藤原朝臣恵美
(眺)天和2年(1682)    藤原恵美朝臣朝𤢥
(玉)元禄2年(1689)    藤原恵美朝臣
(日)元禄4年(1689)    藤原恵美朝臣朝[犭艹(口口)句]
(蕉)元禄4年(1689)    藤原恵美朝臣
(奥前)元禄4年(1691)以降 陸奥守朝狩
(奥)元禄4年(1691)以降  恵美朝臣𤢥
(州)元禄7年(1694)    藤原恵美朝臣獏
(鵆)元禄10年(1697)    藤原恵美朝臣朝𤢥
(国)元禄10年(1697)    藤原の恵美朝臣
(続)宝永5年(1708)    藤原恵美朝臣掲 [藤原恵美朝臣修造掲(カクル)也]
(和)正德2年(1712)    藤原恵美朝臣 藤原恵美朝臣朝[亻葛]
(壼)享保元年(1716)    藤原恵美朝臣朝獦

この他、新井白石が著した「同文通考」正徳年間(1711~1716) の写本A. B.には、「藤原恵美朝臣朝獦」との記述があります。しかし、宝暦10年(1760)の刊本には「藤原恵美朝臣獦」と「朝」の字が欠落しています。更に別な写本C. には、「藤原恵美朝臣朝勝」とあります。([勝]の字の上に[臈]の字の書き込みあります)。
新井白石も同文通考の時点では、「獦」を判読できていなかった可能性が高いように思えます。

同文通考 A.早稲田大学図書館 B.お茶の水女子大学図書館 C.祐徳稲荷神社

おわりに
 今回の記事は前回の「松尾芭蕉の壷碑と多賀城碑について」の註釈として書いたのですが、総国風土記が偽書であるばかりか、それを真正の書という建前の元に、更に改変するというような複雑怪奇なことが行われていて、註釈では収まらないので、新しく項目を立てました。
 私見を言えば、壼碑考で、「壷(ツボ)」は「壼(コン)」の誤りであるとする論を展開しているのは、論点をズラすのによく使われる手であるように思えます。「ツボ」という地名については論ぜずに、そもそも「ツボ」という文字は誤りで「コン」が正しいとすることで、議論の矛先を変えようとしているように思えるのです。
 また、仙台叢書の鈴木雨香の「日本総国風土記残篇の後に書す」についても、不自然な点があります。雨香は「抑此書の我か仙臺に顕はれたることをいへは、仙臺藩儒田邉希賢か、延寶中仙臺藩に召し抱へられし際、京都より持ち下りたるを始めとなす、」と書いていますが、先に見た通りこの写本の来歴には、希賢が書写したのは「正徳元年12月28日(1712年2月)」と書かれていますので、延寶(1680年頃)とは少なくとも30年以上の開きがあります。
 更に、雨香は、藤井貞幹の「好古小録」の「今廢ノ二字其義通ゼズ」との批判に対して、「今廢の二字は池の廢されたるをいへるものにして亦不都合なかるべし」と反論していますが、「今廢」の二字はこの写本にはありません。この二字は先に見た通り、「壼碑考」と「奥羽觀蹟聞老誌」で付け足されたものです。つまり雨香は、この二字が壼碑考で付け足されたことも否定しているということになります。そしてこの反論は、y.(多賀城壼碑案内図)の「鴻之池名今癈」を敷衍しているもので、つまりy.の「鴻之池名今癈」は「今廢」の説明のために更に改変されたものであると言えます。このような、偽書を真正の書という建前で、反論や事実に合わせて改変して行くというような手法は、偽書の常套手段なのかもしれません。

資料
#1.
袖中抄  顕昭 12世紀成立 慶安4(1651)版 19.28  19.29 早稲田大学図書館
いしふミ
  いしふミやけふのせはぬのはつ/\に
  あひみてもなをあかぬけさかな
 顕彰カいういしふミとハ 陸奥のをくにつもの
 いしふミあり日本のはてといへり但田村
 将軍征夷之時弓のはすにて石の面に
 日本の中央のよしをかきつけたれハ石文(イシフミ)
 といふといへり信家侍従の申しハ石の面
 なかさ四五丈許なるに文ゑりつけたり
 そのところをハつほと云 云々 それをつも
 とはいふ也私云みちのくにハ東のはてと
 思へとゑその嶋ハおほくて千嶋ともいふ
 ハ陸地をいハんに日本の中央にても侍に
 こそ

#2.
好古小録 寛政七年乙卯九月(1795) 藤井貞幹 国会図書館
 上巻 一七 陸奥國多賀城碑
按ニ壼碑考ニ載スル所ノ陸奥國風土記ノ残篇疑クハ後人ノ偽作ナラム
イマ其文中解スベカラザル者ヲ記シテ識者ノ訂正ヲ俟ツ
○陸奥風土記残篇云陸奥國宮城郡坪碑在鴻之池今廢
(鎮守府ノ門碑ヲ宮城郡ノ坪碑トハ書ベカラズ 今廢ノ二字其義通ゼズ)
為故鎮守門碑
(故鎮守故ノ字其義通ゼズ門碑モ疑フベシ)
恵美朝獦立之見雲真人清書也
(清書ノ二字至拙疑フベシ)
記異域東邦之行程
(異域東邦之行程其意通ゼズ)
令旅人不為迷塗
(國界ヲ去ルノ里数ヲ記スノミニテ途ニ迷ハザラシムト云大簡ナラズヤ此ヲ以テ塗ニ迷ハザル旅人アラハ一奇ト云ベシ)

2020.7.31

与謝蕪村 奥の細道 上巻
与謝蕪村 奥の細道 下巻
12-13. 14. 15. 16-17. 18.


表紙 000 
1.序章 001 002 003.03
2.旅立 003.03 004 
3.草加 005 006.05
4.室の八島 006.06 007.05
5.仏五左衛門 007.06 008 009.01
6.日光 009.02 010 011 012.03
7.那須 012.04 013 014.06
8.黒羽 014.07 015 016.07
9.雲巌寺 016.08 017 018 19.07
10.殺生石・遊行柳 19.08 020 021.02
11.白河の関 021.03 022.06
12.須賀川 022.07 023 024 025.05
13.あさか山 025.06 026.06
14.しのぶの里 026.06 027.07
15.佐藤庄司が旧跡 027.08 028 029.07
16.飯塚 029.07 030 031.08
17.笠島 031.08 032 033.03
18.武隈 033.04 034 035.01
19.宮城野 035.02 036 037.04
20.壺の碑 037.05 038 039 040.03
21.末の松山 040.04 041 042.04
22.塩竈 042.04 043 044.04
23.松島 044.05 045 046 047 048 049.05
24.石巻 049.06 050 051.07
25.平泉 051.08 052
053 054 055.01
26.尿前の関 055.02 056 057 058 059.01
27.尾花沢 059.02 060.03
28.立石寺 060.04 061
29.最上川 062